『坂の上の雲』の旅~松山(2)。
早朝7時前から道後温泉椿の湯にのんびりつかり、湯けむりの向こうに“これから”をみる。

早朝7時前から道後温泉椿の湯にのんびりつかり、湯けむりの向こうに“これから”をみる。

秋山兄弟生誕地と坂の上の雲ミュージアムへ。素敵なガイドさんに声をかけられ,暫し話し込む。これぞ生涯教育によるまちづくり!…を体感。


芽も出ていないのに,実はならない。
言葉を語る・聴くとは,カラダをもった身体に出合い,触れることだ(他者でも自己でも)。
4年生の総合活動の授業をみる。驚き!子どもたちのしている対話は,弁証法的対話だった。議題について賛成!反対!を出し合いながら自分たちが本当に話さなければならない本質が見えてくる,つまり,「正」・「反」の対話の中から,「合」に至るための主題が見出されて行くという1時間。こうした思考と対話のあり方が,1年生からの教育活動を通じて子どもたちのなかに“発生”してきている,というのは驚きと感動の何ものでもない。
学校評価に関連して、某学校でSWOT分析をファシリテートする。
「自らの果たすべき貢献は何かとの問いからスタートするとき,人は自由になる」-P.F.ドラッカー。
これが、SWOT分析のキモ。
“かかわりあい”とか“対話”とか“言語技術”とかいうけれど,言葉を発し言葉を受け取る自分の身体を忘れた議論や指導にどれだけ意味があるだろうか?
※開会式で,ある医師がマザー・テレサの“死を待つ人の家”を訪ねて言った言葉ー「ここには見るべき医療はないが,真の看護がある」を引いて,伊那小のめざすところを語られたのが,大変印象に残っている。
※◯×をつけるような,適応的なシングル・ループ学習の視座で伊那小の実践をみたとき,きっと「見るべき医療はなかった」と結論づけてしまうだろう。
※学びとは,迷悟一如だ。
「適応的なシングル・ループ学習の視座」で伊那小学校の実践をみると,表層の教師の技術や表層の子どもたちの言い方・やり方にしか目がいかないだろう。それはもったいない見方だ。教室に一歩入って驚かされたのは,能動的学習者として場に開いている子どもたちと教師がそこに居たこと。これは,観念や理屈としてではない。教室を覗いた途端,子どもたちの内で起こっている「動き(胎動)」がダイレクトに伝わってきて,授業の中身云々以前こちらまでドキドキ,ワクワクしてきたくらいだ。そういう土壌の「耕し」(“learning to be”)にこそ,私たちが学ぶべきことではないか。
澤木興道『禅談』より。
「行あって願なきものは」
仏教には『願』と云うものが,どうしてもなければならぬ。大般若経の魔事品の中に『行あって願なきものは菩薩の魔事なり』ということがある。修行しても,『願』が無かったならば,ハンドルのないオートバイ見たいなものでフニャフニャである。
車窓の雪景色を見ながら,思い出した一節…。


「次の活動につながる大事な瞬間 その際(きわ)をふり返る まさにそのとき あとみよそわか」-たんなる教育活動ではなく本来の教育が実践されている,実物の姿に出合えた学校でした。
※開会式で,ある医師がマザー・テレサの“死を待つ人の家”を訪ねて言った言葉ー「ここには見るべき医療はないが,真の看護がある」を引いて,伊那小のめざすところを語られたのが,大変印象に残っている。
※◯×をつけるような,適応的なシングル・ループ学習の視座で伊那小の実践をみたとき,きっと「見るべき医療はなかった」と結論づけてしまうだろう。
※学びとは,迷悟一如だ。


雪の少なさに驚きながら、はじめてのざざむしを噛みしめて、地元のお酒・樽酒あらばしりを一口…
。


どう書くのか?文章でどう表現するのか?の答えは,自分の感覚が割れて来れば見える!自分の感覚が割れるか否かは,自分が“状況との対話”をするかどうかにかかっている。
正月そうそう携帯電話をトイレに流し切り,先週は携帯電話の充電器をホテルに忘れ,今日は街中に傘を忘れる…今年は,こんな年なのかも…。
学習は,正か反か?ではなく,正反合のワルツ△で進む。それには,よりよいものを創りだそう,とか,より本質に近づきたい,という自分が打って出るということを可能にする意図に立っていることが要求されるが。
「それは私の力によってなされた」といえることなど,何一つ無い。
ということで,土日は,とにかく寝て過ごし…日曜日の午後8時以降から動き始める。
いつぞやの足裏マッサージにて…。
足の指先が冷たいことを,「冷たいですね」「冷たいですね」と,何度も何度も‘指摘’される。
今・ここの,道ばたの石ころからでも学べる。
ポリウレタン素材のジャケットをいたく気に入って購入。実際着て過ごしてみると…自分で体温調節出来ない爬虫類になった気分だ…
。
お疲れさま
!の仕事のあとのおやつ。

そういえば,その昔,『兼高かおる世界の旅』で見た。どこかの国のアワビか何かの加工場。身だけ取り出し肝を捨てていたのを見た兼高かおるは,「ここが美味しいのにね」とか何とか言いながら,その肝を食していたっけ。
熱田神宮。草薙剣(天叢雲剣)が納められているという…。

夜は地元産の食材を使ったフランス料理に舌鼓…。

大概のことは,どうでもいいなぁ…と思えてくる。
100円プラスで黒糖ドーナツ棒。

ゆっくりじっくり汗をかく。

自分も大したことないな…と思える
。
今日は、水煮の小豆で、あたたかいぜんざいにしていただく
。

エドワード・リード,レベッカ・ジョーンズ編『直接知覚論の根拠―ギブソン心理学論集」(p12)より。
ギブソンにとって,実在論は,哲学的信条にとどまらず,科学を追究するために不可欠な方法であった。彼は,次のような考えに立っていた。即ち,“理論の構築というものは,その理論が‘反証可能である’場合に(つまり,理論構築の後に,その理論に対する反証を挙げる実験的研究が可能であり,しかも,その理論を完全に却下できるだけの反証を挙げることができない場合に),最も有用である(Gibson,1950a p.ⅶ)。”ギブソンの全ての研究に表れている通り,彼は,自らの理論を反証可能性を維持したかたちで構築するべく努めていた。そうすることでギブソンは,多くの実験家が仮定のまま放置するのに甘んじてきたことを,仮説として検証の俎上に載せた。
調子の悪いときの自分についてはあれこれ構い分析解釈し,調子のいいときの自分には目が向かない,というときの自分は,自分の思い描いた自分であって,自分という実物ではない。
調子のいいときの自分とは向き合えて,調子の悪いときの自分からは目を背ける,というときの自分は,自分の思い描いた自分であって,自分という実物ではない。
今度の研修の案,どうしても行き詰まるので,いったん考えたことを解きほぐして,編み直してみる。
八百屋にて一袋700gで138円!お風呂に浮かべる
。

今の時代,明治維新というよりも,平安の末法の世に似ている…かも。
エドワード・リード,レベッカ・ジョーンズ編『直接知覚論の根拠―ギブソン心理学論集」(p269)より。
ギブソンは,「行動は,刺激或いは中枢の(認知や動機づけ)状態によって引き起こされた,反応や反応の階層から成る」という,依然として広く指示されている理論(Gallistel,1980;Norman,1980)を退けた。代りにギブソンは,「行動は,姿勢《postures》と運動《movements》の入れ子から成っており,知覚によって制御される」と論じた。