嬉し(5)。
行きつけのお好み焼き屋さんにて…今日は,他のお客さんも来ず。めずらしくゆったりとその店の主人と話をしながら,お好み焼きを堪能。なんだか得した気分。
行きつけのお好み焼き屋さんにて…今日は,他のお客さんも来ず。めずらしくゆったりとその店の主人と話をしながら,お好み焼きを堪能。なんだか得した気分。
今朝は,手作りパンで朝食!だったのだが…
手作りで焼いたパンを食べるという経験!?
手作りでパンを焼いて食べるという経験!?
パンを手作りで焼いて食べるという経験!?

エドワード・リード 著,菅野盾樹 訳『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』より(p146)。
わたしが世界における自らの行動を舵取りできるために、自らの環境についてすべてを知ることは(あるいはそう主張することさえ)必要ない。わたしは世界の性質について完璧な報告をなしえないかもしれないが、転んだり物につまづいたりせずに歩き回ることができるーいや、そればかりか、ずっと多くのことを行ない理解できるのである。いっそう重要なのは、もし注意を払えば、新しい行動を習得できるという点である。換言すれば、出来事を知覚し自らの活動を制御する能力を高められるのである。
互いの思考を互いの思考のなかにほぐして編み上げて行く。
先日仕込んで,一次発酵させたビールを瓶詰め!1ヶ月後の抜栓が楽しみでもあり心配でもあり…。

畳の上で平和に死ぬより,石に蹴つまずいて野垂れ死ぬより,ばっさり切られても敵陣に攻め入って討ち死にする方がいい。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
(マタイ6.5−15)
エドワード・リード 著,菅野盾樹 訳『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』より(p197)。
予期的気づきも予期的制御も,かなりの部分が直接的な暗黙知に基づいている。ボールを蹴るためにあなたが意識する必要のあるすべてのことがらをあなたに教えることは誰にもできない。あなたは独力でそれらのことを発見しなければならない。しかし間接的で明示的な知識もまた有効な役割を果たすことができる。そのもっとも重要な任務は,事物に注意を促すことである(「やってごらん,ほら,蹴ることができるよ!」)。しばしば目標は(われわれの進路でさえ)明示的なものとなる。しかしながら,目標に到達するやり方は,たいていの場合,暗黙知と暗黙の技能を基礎にしている。一次的経験の根本的価値はそれが予期的だということ,つまりそのなかにありうる未来への道筋についておぼろな知識が含まれていることである。
お粥を炊いて米麹を混ぜて,時々湯煎しながら,半日かけて鍋一杯の甘酒をつくる。

十四
病に寐てより既に六、七年、車に載せられて一年に両三度出ることも一昨年以来全く出来なくなりて、ずんずんと変つて行く東京の有様は僅わずかに新聞で読み、来る人に聞くばかりのことで、何を見たいと思ふても最早我が力に及ばなくなつた。そこで自分の見た事のないもので、ちよつと見たいと思ふ物を挙げると、
一、活動写真
一、自転車の競争及び曲乗
一、動物園の獅子及び駝鳥
一、浅草水族館
一、浅草花屋敷の狒々及び獺
一、見附の取除け跡
一、丸の内の楠公の像
一、自働電話及び紅色郵便箱
一、ビヤホール
一、女剣舞及び洋式演劇
一、鰕茶袴の運動会
など数ふるに暇がない。
情のない教育はNG,情に溺れる教育もNG。そのこころは…。
7年かけて,必要なものを手に入れた−何が必要だったかは,手に入れて初めて分かったが…。
出来上がりよりも途中〜
。
(手作りビール仕込み2日目)
果物屋の前を通ると、鼻先に甘く爽やかな柑橘の香りが。思い切り息を吸い込む。
半年前に買ったビールキットで,やっとビールを仕込む。

明日こそは…と言ってるだけじゃあね。
甘さ控えめが今ふう…。

エドワード・リード 著,菅野盾樹 訳『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』より(p62)。
デューイが「自由はある種の相互行為のなかにある。すなわち、そこで人間の欲望と選択が何らかの価値をもつような環境を維持するような相互行為である」と書くとき、彼は普遍的真理を述べているのではなく、実践的提案をしているのである(10)。
エドワード・リード 著,菅野盾樹 訳『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』より(p58)。
デューイは,伝統的な西洋哲学の「確実性の探求」という理念と不変の本質の発見という脅迫観念を批判している。なぜなら,これらの見解が単に間違った哲学であるばかりか,エリート主義や反民主主義の主張だからでもある。デューイにとって,不変の本質に心を砕くことには,知る者を行為する者から,知的エリートである支配階級をふつうの労働者から切り離す危険なやり方が示されている。
先日塩麹漬けした青ウリを食卓に…噛むごとにうま味が拡がり,思わず顔がほころぶ。
夜寝るまえ、洗面所で顔を洗って化粧を落として終えて、思わず「はぁ〜」と一言漏れる。
卵を孵化させるには、ぬくぬく温めるだけではだめ、転卵が必要。
八百屋に行くと目にも鮮やかな緑色の青ウリが並んでいた。塩麹漬けにしよう。
今口から出ている言葉は,“生死”に根付いた言葉だろうか?
言葉には,その内容が直接話されていなくても,その人の志向や嗜好や思考が滲み出ている。
「学ぶ」なかにある,謙虚さ…一心に文字(A,B,C)を学ぶジャン・バルジャン(レ・ミゼラブル[DVD]より)。
孤独は,人になる子にあげよう。
代わりにお前には,音をつくってあげよう。
この世の誰も聞いたことのない音,
この海原ごしに呼びかけて船に警告してやる声が要る。
その声をつくってやろう。
これまでにあったどんな時間,
どんな霧にも似合った声をつくってやろう。
たとえば夜更けてある,
きみのそばのからっぽのベッド,
訪うて人の誰もいない家,
また葉の散ってしまった晩秋の木々に似合った…
そんな声をつくってやろう。
泣きながら南方へ去る鳥の声,
十一月の風や,寂しい浜辺に寄する波に似た音,
そんな音をつくってやろう。
それはあまりに孤独な音なので,
誰もそれを聞き漏らすはずはなく,
それを耳にしては誰もがひそかに忍び泣きをし,
遠くの街で聞けばいっそう我が家が暖かく懐かしく思われる…
そんな音をつくってやろう。
おれは我と我が身を一つの音,
一つの機械と化してやろう。
そうすれば,
それを人は霧笛と呼び,
それを聞く人はみな
永遠というものの悲しみと
生きることのはかなさを知るだろう。
J.デューイ著,鈴木康司訳『芸術論−経験としての芸術』(pp49-50)より。
経験は,すべて受動と能動との関係を妨げるその原因となるものによって局限される。この妨害には能動の側の過剰からくるものもあり,また受容性(receptivity)の側の,つまり受動の側の過剰からくるものもあろう。どちらの側の不均衡でも,それは関係の認識を曇らせ,経験を偏った,ゆがんだものにし,あるいは貧弱な意味のもの,まちがった意味のものにする。(p49)
(略)
能動と受動の関係を認識することが知性の働きを成すものであり,また芸術家はその制作にあたっては,彼がそれまでしてきたことと,これからしようとすることとの間の関係を把握することによって左右される。従って,芸術家が科学者のように真剣な徹底的な思考を行なわないという説は矛盾している。画家はその一筆一線の影響を,意識の上に蒙るに違いない。さもないと,彼がなそうとするところ,彼の作品の向かおうとするところを,彼は知りえないであろう。さらに彼は自分が創り出そうとする作品全体について,その能動および受動の個々の関係を見きわめなければらならい。こうした関係を理解することは,即ち思惟することであり,それもきわめて厳しい思惟の一つである。違った画家の描いた絵の間に見られる相違は単なる色彩に対する感受性の差や,表現の技倆の差に基づくのみでなく,それと同程度に,この思惟を営む能力の差にも基因する。絵画の根本的特質について言うと,実にこの差異は他のなにものに依存するよりも,関係の認識に向けられる知性の性質により多く依存している。もっとも,言うまでもなく知性は直接的感受性を離れることはできない,そして熟練ということと,もっと外面的な結びつき方ではあるが,結びついている。(pp49-50)
J.デューイ著,鈴木康司訳『芸術論−経験としての芸術』(p45)より。
後に述べるように,すべて経験には外界の働きを蒙る(undergoing),広い意味でこれをsuffering,つまり受ける一面がある。さもなければ,それに先だつものを取り入れるということは起こらない。なぜなら,いきいきした経験においては,「取り入れる」ということは既知の事柄に関する意識の頂になにものかを置くことではなく,それ以上のことをいうのだからである。それは改造を意味している。そしてこの改善は苦しいことかもしれない。
ちょっと前の話。
結構名の知られたお好み焼き屋さんに入る。
次は行かないかな…と思いつつ店を出る。
「お客を効率よくさばく」ということが優先順位の一番なんだなぁ…。
ということが,店員さんたちの振る舞いから見えてくる。
冊子作るのが好き!という趣味を活かして,数冊のコーチングとマネジメントのテキストを作ってみよう!とコミットメントがてら,リマインダーに予定として書き込む。