方針を示すことの大切さ。
無線LANでブリッジ接続が出来なくなって丸1日。観念して,テクニカルサポートに電話。
有償の電話対応で,ほどなくwifi復旧…したのだけど,結果的にブリッジ接続は解消。配線の都合上,ブリッジ接続にしておきたかった。
「最初にブリッジを解消して接続をやり直しますが…」という改善方針を示してくれると,もっとよかったのだけれど…
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無線LANでブリッジ接続が出来なくなって丸1日。観念して,テクニカルサポートに電話。
有償の電話対応で,ほどなくwifi復旧…したのだけど,結果的にブリッジ接続は解消。配線の都合上,ブリッジ接続にしておきたかった。
「最初にブリッジを解消して接続をやり直しますが…」という改善方針を示してくれると,もっとよかったのだけれど…
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斎藤孝著『頭がよくなる思考法 天才の「考え方」をワザ化する』より。
たとえば鈴木敏文さんのひと言に,「仮説と検証」があります。日々の仕事の中で毎日,小さな仮説でいいから立てて,それを実際に検証してみるということです。挨拶の仕方を変えたら,相手の反応がどう変わるかといった小さな仮説でもいいのです。実際にやることで,凡事の大切を体で知るわけです。
それも「身体性」の一つです。
“がっかり”感を噛み締めながら,自分の実践をテキストのなかでunlearningする(学びほぐす)。

成果をあげるには、自らの果たすべき貢献を考えなければならない。手元の仕事から顔を上げ目標に目を向ける。組織の成果に影響を与える貢献は何かを問う。そして責任を中心に据える。
自らの果たすべき貢献を考える者は、部下が果たすべき貢献についても考える。あなたに期待できることは何かと聞く。こうして本当のコミュニケーションが行なわれるようになる。
しかも、貢献に焦点を合わせることによって、横へのコミュニケーション、すなわちチームワークが可能になる。
よりよい教育をめざして日々探究し深めている学校は,自ずと組織マネジメントされているように見える。
ドラッカーは、自らを、成果を上げる存在にできるのは、自らだけだという。成功の鍵は責任にある。自らに責任を持たせることにある。責任ある存在になるということは、自らの総力を発揮する決意をすることである。
百尺竿頭進一歩。
その一歩は、既存を破壊し新たな動きを創造する“鬼”の一歩だ。
〜鬼について〜
黒田日出男「鬼神探しを楽しもう」(『朝日新聞』98.04.08夕刊)より。
・中世の学者とは、限りなく鬼に近い存在であったことになる。というより、学者とはまさしく鬼であったのだ。
・現代でも、学者の本性は鬼であると私は思っている。この社会とさまざまに対峙する(他者としての)鬼である。
・だが、現在の大学にいる大部分の学者は、凡庸な「鬼」たち、「鬼」になりそこねた学者たち、さらには鬼になるつもりなど全くない学者たちであると言い得るのではなかろうか。
成功体験の積み上げは、利かない。
伊那小の子どもたちの自立した姿の印象的なこと。個々が「自ら立つ」というのではなく,自と他の切れ目のないぶっ続きの地盤に「自ずと立つ」というあり方。
佐伯胖著『「学び」の構造』(p24)より。
さて以上のような「学べない人間」(無気力型,ガリ勉型,ハウ・ツウ型)のいだいている学習観をまとめてみると,第一に,学習を「勉強作業」ーせっせと本を読み書き写す作業ーとしてとらえる作業的学習館と,第二に,「考える」ことをすべて「うまくやる工夫」とみなす方法的(工学主義的)学習観とにわかれる。
しかし,われわれが何故このような学習観におちいりやすいのかをさらに考えてみると,このような考え方を生み出してきた背景として,ここに,どうにもならないほど根強い,われわれ日本人の心の中にひそむ三つの特徴に思いあたる。その第一は,知識に対する権威主義的なみかたであり,第二は,真理というものに対する主観主義的解釈,そして第三には,人間にとっての「善さ」即ち道徳を「マナー」としてとらえる方法主義的道徳観である。
これまでの自分たちの暗黙の組織観(それが“組織”と言えるか否かは置いておいて)・職業観・文化観を前提として,さまざまな理論や方法論の導入を自分たちに適応的か否かで判断するのは,とてつもなく防衛的な姿勢であって,使命の遂行には逆行する。(自身がそういう姿勢でいることに無自覚であることは,もっとマズイ。)
「でました。」
というセリフとともに,ぼくのかお,ぞうのかお,おおきな火山,南極のペンギン,飛行船,豪華客船…がどんと出る,という"だけ"の絵本。
これは,「比丘の口竈(かまど)の如し」(道元禅師『典座教訓』)だな…。
佐伯胖著『「学び」の構造』(pp136-137)より。
教育の目標を学習者の「行動のことば」で表現し,それが達成されたか否かを検証することを強調し,学習者がその目標行動を達成したときにはじめて「教えた」と自認する,このような教育観は「成功的教育観」とよばれる。それに対し,従来の教育観にみられるように,教育の目標が教師の側で意図することがらとして,しかもそれが達成されたか否かについては外から観察で「検証」する事のできない「…を理解させる」式の表現であらわされているものは,「意図的教育観」とよばれ,ティーチング・マシンを進める人々はその誤りや弊害をきびしく指摘する。いやしくも「教育の科学化」をめざしている人ならば,これはいかにも当然のことであり,そのために,旧来の古い教育観からぬけきれない人々から誤解や非難をうけることがあるとしたならば,これは誠に残念なことと言う以外にない。
教育の目標はできうるかぎり明確にしなければならない,学習者の行動のことばであらわすことがきわめて大切なことである,ということについては,ここで十分確認しておくべきであり,「教育の科学化」をそこに賭ける,といってよいほど重要なことであることも認めよう。
その上で,あえて問うてみる。教育の目標はすべての学習者の行動のことばに還元できるか,と。つまり,ティーチング・マシンの「最後のとりで」は,本当に,絶対不動のものであるか,ということである。
このことを詳細に吟味するには,われわれが日常つかっている「教える」ということばの意味の分析からはじめるのがよさそうである。
私の意図=行為する身体を見取ってほしいのだけど。
子の曰く、吾れ
十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に
従って、矩を踰えず。
机上の話か実の話か。妄想の話か実の話か。机上の話にも妄想の話にも身体感がない。
早朝7時前から道後温泉椿の湯にのんびりつかり、湯けむりの向こうに“これから”をみる。

秋山兄弟生誕地と坂の上の雲ミュージアムへ。素敵なガイドさんに声をかけられ,暫し話し込む。これぞ生涯教育によるまちづくり!…を体感。


芽も出ていないのに,実はならない。
言葉を語る・聴くとは,カラダをもった身体に出合い,触れることだ(他者でも自己でも)。
4年生の総合活動の授業をみる。驚き!子どもたちのしている対話は,弁証法的対話だった。議題について賛成!反対!を出し合いながら自分たちが本当に話さなければならない本質が見えてくる,つまり,「正」・「反」の対話の中から,「合」に至るための主題が見出されて行くという1時間。こうした思考と対話のあり方が,1年生からの教育活動を通じて子どもたちのなかに“発生”してきている,というのは驚きと感動の何ものでもない。
学校評価に関連して、某学校でSWOT分析をファシリテートする。
「自らの果たすべき貢献は何かとの問いからスタートするとき,人は自由になる」-P.F.ドラッカー。
これが、SWOT分析のキモ。
“かかわりあい”とか“対話”とか“言語技術”とかいうけれど,言葉を発し言葉を受け取る自分の身体を忘れた議論や指導にどれだけ意味があるだろうか?
※開会式で,ある医師がマザー・テレサの“死を待つ人の家”を訪ねて言った言葉ー「ここには見るべき医療はないが,真の看護がある」を引いて,伊那小のめざすところを語られたのが,大変印象に残っている。
※◯×をつけるような,適応的なシングル・ループ学習の視座で伊那小の実践をみたとき,きっと「見るべき医療はなかった」と結論づけてしまうだろう。
※学びとは,迷悟一如だ。
「適応的なシングル・ループ学習の視座」で伊那小学校の実践をみると,表層の教師の技術や表層の子どもたちの言い方・やり方にしか目がいかないだろう。それはもったいない見方だ。教室に一歩入って驚かされたのは,能動的学習者として場に開いている子どもたちと教師がそこに居たこと。これは,観念や理屈としてではない。教室を覗いた途端,子どもたちの内で起こっている「動き(胎動)」がダイレクトに伝わってきて,授業の中身云々以前こちらまでドキドキ,ワクワクしてきたくらいだ。そういう土壌の「耕し」(“learning to be”)にこそ,私たちが学ぶべきことではないか。
澤木興道『禅談』より。
「行あって願なきものは」
仏教には『願』と云うものが,どうしてもなければならぬ。大般若経の魔事品の中に『行あって願なきものは菩薩の魔事なり』ということがある。修行しても,『願』が無かったならば,ハンドルのないオートバイ見たいなものでフニャフニャである。
車窓の雪景色を見ながら,思い出した一節…。


「次の活動につながる大事な瞬間 その際(きわ)をふり返る まさにそのとき あとみよそわか」-たんなる教育活動ではなく本来の教育が実践されている,実物の姿に出合えた学校でした。
※開会式で,ある医師がマザー・テレサの“死を待つ人の家”を訪ねて言った言葉ー「ここには見るべき医療はないが,真の看護がある」を引いて,伊那小のめざすところを語られたのが,大変印象に残っている。
※◯×をつけるような,適応的なシングル・ループ学習の視座で伊那小の実践をみたとき,きっと「見るべき医療はなかった」と結論づけてしまうだろう。
※学びとは,迷悟一如だ。


雪の少なさに驚きながら、はじめてのざざむしを噛みしめて、地元のお酒・樽酒あらばしりを一口…
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どう書くのか?文章でどう表現するのか?の答えは,自分の感覚が割れて来れば見える!自分の感覚が割れるか否かは,自分が“状況との対話”をするかどうかにかかっている。
正月そうそう携帯電話をトイレに流し切り,先週は携帯電話の充電器をホテルに忘れ,今日は街中に傘を忘れる…今年は,こんな年なのかも…。