抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章1(2)
J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。
第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育
(12-15頁)
1、伝達による生命(ライフ)の更新
これまでは、生命(ライフ)について、その語の最も低次の意味において−−すなわち肉体的存在として−−語ってきた。しかし、われわれは「生活(ライフ)という語を個体および種族の経験の全範疇を指すものとしても用いる。われわれは「リンカーンの生涯(ライフ)」という本を読むとき、その本の中に生理学の論文がのっているとは思わない。われわれは、彼の生まれる前の社会事情についての記事や、幼児の環境、家族の状況や職業、性格の発達過程における主要なエピソード、特記すべき努力や業績、その人の希望や趣味や歓喜や苦悩についての記述を予期するのである。われわれは以上と全く同様なやり方で未開部族やアテナ市民やアメリカ国民の生活(ライフ)ということを口にするわけである。「生活(ライフ)とは、慣習、制度、信仰、勝敗、休養、職業を含むものなのである。
われわれは「経験」という語を同様に充実した意味で用いる。そして経験に対しても、ただ単なる生理学的な意味における生活に対してと同様に、更新による連続という原理があてはまる。人間の場合には、肉体的存在の更新に、信念や理想や希望や幸福や不幸や慣行の再生(リ・クリエーション)が伴う。どんな経験でも社会集団の更新を通じて連続するということは文字通りの事実である。最も広い意味での教育は生命のこの社会的連続の手段なのである。未開部族におけると同様に近代都市においても、社会集団の成員はだれでも、未熟で、無力で、言語も信念も観念も社会規範ももたずに生まれてくる。一人ひとりの個人、すなわちその集団の生活経験の担い手である各単位は、やがては死に去って行く。それでも集団の生命は持続するのである。
社会集団を構成する各成員が生まれ、そして死ぬ、という根本的な不可避の事実が教育の必要を決定するのである。一方には、集団の新たに生まれた成員−−その集団の未来の後継者は彼ら以外にはない−−の未成熟と、その集団の知識や慣習を身につけている成人の成員の成熟との間には、著しい対象がある。他方には、これらの未成熟な成員が、単に身体的に十分な数だけ保持されていなければならないだけでなく、彼らに成熟した成員の関心や目的や知識や技術や慣行を教えなければならないという必要がある。すなわち、さもなければ、その集団はそれ特有の生命を中止することになるだろうからである。未開部族においてさえ、成人の獲得している能力は、未成熟な成員が放置されていた場合になしうると思われるものを遥かに越えているのである。文明の発達とともに未成熟の最初の能力と年長者の規範や慣習との間のギャップは拡大する。単なる肉体的成長や、単なる生存に必要なことについての熟達だけでは、集団の生命の再生産には不十分であろう。慎重な努力や思慮深い苦心が必要なのである。社会集団の目標や習慣を知らないばかりでなく、それらに全く無関心な状態で生まれてくるものたちにそれらを知らせ、積極的な関心を抱かせなければならないのである。教育が、ただ教育だけがそのギャップを埋めるのである。
社会は、生物学的生命と同じ程度に、伝達の過程を通じて存続する。この伝達は年長者から年少者へ行為や思考や感情の習慣を伝えることによって行われる。集団生活から消え去って行こうとしている社会の成員から集団生活の中へ入って行こうとしている成員への、この理想や希望や期待や規範や意見の伝達なしには、社会の生命は存続できないだろう。かりに社会を構成する成員がずうっと生き続けるとしても、彼らは新たに生まれてきた成員を教育するかもしれないが、それは社会的必要ではなく、むしろ個人的関心によって導かれた仕事となるだろう。だが、そうでないからこそ、教育は必須の仕事なのである。
もし悪疫が社会の成員をすべて一度に奪い去ったとすれば、その集団が永久に滅びてしまうことは明白である。ところで、社会の成員がだれでもみな死んで行くということは、彼らが流行病で皆一度に死んでしまう場合と同様に、確実である。けれども、年齢の段階的相違、つまりあるものはすぬが、あるものが生まれるという事実が、観念や慣行の伝達によって、社会という織物を不断に織りなすことを可能にするのである。とはいえ、この更新は自動的ではない。真正の、そして徹底的な伝達が行なわれるようにするための努力がなされなければ、最も文明化された集団も、野蛮に、そしてさらに未開状態へとあと戻りするだろう。実際、人間の子どもは、もし他の人々の指導や援助なしで放置されたならば、肉体的生存のために必要な基本的能力を獲得することさえもできないほど、未熟である。人間の子どもは、出生児の能力の点では、多くのもっと下等な動物の子にはとうていおよばないのである。してみると、技術上、芸術上、科学上、道徳上で人類の達成した事柄すべてに関しては、以上のことはなおいっそう真実なのである。
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