抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(2)
J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。
第2章 社会の機能としての教育
2、社会的環境
(30-32頁)
ところで、多くの場合−−あまりにも多くの場合−−、人間の未成熟者の活動も、有益な習慣を形成するために、ただうまうまと利用されるにすぎない。彼は、人間らしく教育されるというより、むしろ動物のように訓練されているのである。彼の本能は、依然として、それが最初からもっていた苦痛とか快楽という目的に結びつけられたままである。けれども、幸福を手に入れたり、失敗の苦痛を回避したりするために、彼は他の人々の意に適うやり方で行為しなければならないのである。だがそうでない場合には、彼は、本当に、共同活動に関与すなわち参加するのである。その場合には、彼の本来的な衝動は修正される。彼は単に他の人々の行動に調和するやり方で行動するだけでなく、そのように行動しているうちに、他の人々を活動させるのと同じ観念や情緒が彼の中に生ずるのである。ある部族が、たとえば、好戦的であるとしよう。その部族が努力して達成しようとする成功や、尊重する業績は、戦闘や勝利に関するものである。こういう生活環境が存在することは、少年を刺激して、最初は遊戯において、やがて少年が十分に強く逞しくなったときには実戦の場において、好戦的態度を発揮させるのである。闘えば、それだけ彼は世に認められ、出世することになるが、尻込みすれば、それだけ嫌われ、嘲られ、好意的処遇を拒まれる。彼が最保からもっている好戦的な傾向や情動が他のものを犠牲にして強化させることや、彼の考えが戦争に関係する事物に向かうことは、少しも意外なことではないのである。このようにして、はじめて、彼はその集団の公認の成員に立派になりきることができるのである。このようにして、彼の心的習性は、しだいにその集団のものに同化されて行くのである。
右の実例の中に含まれている原理をとり出して明確にすれば、社会的生活環境は、一定の願望や観念を直接植えつけはしないし、また、打撃に対して「本能的に」瞬きしたり身をかわしたりするような、ある種の全く筋肉的な行動習慣を確立することにとどまりもしない、ということに気づくだろう。一定の見たり触れたりすることのできる具体的な行動様式を刺激するような情況を設定することが、最初の段階である。そして、個人をその共同活動の参加者すなわち仲間にして、彼がその成功を自分の成功と感じ、その失敗を自分の失敗と感ずるようにすることが、その完成段階なのである。その集団の情動的態度が彼に乗り移るやいなや、彼は、その集団が目ざしている独特の目的や、成功をもたらすために使われる手段を機敏に認知することができるようになるだろう。言い換えれば、彼の信念や観念は、その集団の他の人々のものと同様のものとなるだろう。そしてさらに、彼は他の人々とほとんど同じくらいの知識の貯えを獲得するだろう。なぜなら、その知識は彼がいつもやっていることの構成要素だからである。
知識を獲得する過程で言語が重要な働きをすることが、知識は人から人へ直接的に伝えることができる、という俗説の主な原因となっていることは確かである。ある観念を他人の心に伝えるには、その人の耳に音声を伝えさえすれば、それでよいかのように思われてるほどである。そのため、知識を伝えることは、純物理的な過程と同じものとされてしまうのである。けれども、言語からの学習過程は、分析すれば、先ほど述べた原理を裏付けるものであることがわかるだろう。おそらく、次のことは、ほとんど躊躇することなく、容認されるだろう。すなわち、子どもが、たとえば、帽子の観念を獲得するのは、それを他の人々がするのと同じように用いることによってなのだ、つまり、それを頭に被ったり、それを被るために他の人に手渡したり、外にでるときにそれを他の人から被せてもらったりすること等々によってなのだ、ということである。だが、物語や読書によって、たとえば、ギリシャ人の兜の観念を獲得する過程に、この共有された活動という原理は、いったいどんな風に当てはまるのか、と問われるかもしれない。というのは、その過程には、直接それを用いるというようなことは全然入り込まないからである。また、アメリカ大陸の発見について書物から学ぶ過程に、いったいどんな共有された活動があるのだろうか。
(続く)
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