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2021年5月 5日 (水)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章2(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

2、教育と通信(コミュニケーション)

(続き)

(17-19頁)

社会生活が通信(コミュニケーション)と同じことを意味するばかりではなく、あらゆる通信(したがって、あらゆる真正の社会生活)は教育的である。通信を受けることは、拡大され変化させられた経験を得ることである。人は他者が考えたり感じたりしたことを共に考えたり感じたりする。そしてその限りにおいて、多かれ少なかれ、その人自身の態度は修正される。そして通信を送る側の人もまたもとのままではいはしない。ある経験を他人に十分にそして正確に伝えるという実験をしてみると、とりわけその経験がいくぶん複雑な場合には、自分の経験に対する自分自身の態度が変化しているのに気づくだろう。さもなければ無意味な言葉を使ったり叫び声をあげたりすることになる。経験を伝えるためにはそれは系統だててきちんと述べられなければならない。経験をきちんと述べるには、その経験の外に出、他人がそれを見るようにその経験を見、その経験が他人の生活とどんな点で接触するかを考察して、他人がその経験の意味を感得できるような形にしておくことが必要である。平凡な文句や標語に関する場合のほかは、人は自分の経験を他人に理知的に語ってきかせるためには想像力によって他人の経験をいくらか自分のものにしなければならない。通信はみな芸術に似している。それゆえ、いかなる社会制度も、それが真に社会的である限り、つまり真に共有されている限り、それに関与する人々にとって、教育的であるといってよいだろう。それは、型にはまって、きまりきった仕方で行なわれるときにだけ、その教育力を失うのである。

それゆえ、結局のところ、社会の生命はその存続のために教えたり学んだりすることを必要とするばかりでなく、共に生活するという過程そのものが教育を行なうのである。その過程によって、経験が拡大され、啓発さえれる、想像力が刺激され、豊かにされる。言明や思想を正確にし、生き生きしたものとする、という責任が生ずるのである。ほんとうにひとりぼっちで(肉体的にだけでなく精神的にもひとりぼっちで)生活している人は、自分の過去の経験の正味の意味を引き出すためにその経験をふりかえって考える機会をほとんど、いやむしろ全くもたないであろう。成熟者と未成熟者との間の後天的能力の差異があるために子どもを教えることが必要になるばかりでなく、この教えるということの必要が、経験を加工して、それを最も伝えやすく、したがって最も利用しやすくするような秩序や形式へと整えることに、計り知れないほど大きな刺激を与えるのである。

 

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