抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章3(1)
J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。
第2章 社会の機能としての教育
3、教育的なものとしての社会的環境
(35-37頁)
われわれの考察の正味の成果は、これまでのところ、次のことである。すなわち、社会的環境は、一定の衝動を呼び醒まし、強化し、また一定の目的をもち、一定の結果を伴う活動に、人々を従事させることによって、彼らの中に知的および情動的な行動の諸傾向を形成する、ということである。音楽家の家庭で育つ子どもは、彼が音楽に関してもっている素質はどれもみな不可避的に刺激されるだろう。しかも、相対的には、それらは、別の環境で目醒ませられたかもしれない他の衝動よりも強く刺激されるだろう。音楽に興味をもち、しかも音楽に関して一定の能力を獲得するのでなければ、彼は「仲間外れ」になり、自分が所属する集団の生活に加わることができない。人間にとって、自分に関係のある人々の生活に何らかの形で参加することは不可避のことである。そういう参加という点から言えば、社会的環境は、無意識的に、そしてはっきりと決められた目的のどれども無関係に、教育的すなわち形成的な影響を与えるのである。
未開人や野蛮人の社会では、そのような社会生活への直接的参加(これまでに論じてきた間接的ないし付随的教育はそれによって成り立っているのである)の与える影響が、子どもたちを育てて、その集団の慣行や信念を身につけさせて行くための、ほとんど唯一の作用である。今日の社会においても、学校教育を最も強く受けた若者でさえも、その基礎的養育を、そのような直接的参加から受けるのである。その集団がもつ関心や業務に応じて、ある種の事物は大いに尊重される対象になり、他の事物は反感の対象になる。共同生活は愛情や嫌悪の衝動を創り出しはしないが、それらが結びつく対象を与える。われわれの集団または仲間が事をなす行動様式は、注意を向けるにふさわしい対象を決定し、したがってまた、観察や記憶の方向や限界を規定する傾向がある。見慣れないものとか、異質なもの(すなわち、その集団の活動の範囲を越える外的なもの)は、道徳的に禁止され、知的には疑わしいものとされがちである。たとえば、われわれが非常によく知っていることが昔は見落とされていたということがありえたとは、われわれにとってほどんど信じられないことのように思われる。われわれは、昔の人々は生来愚鈍であったとし、われわれの側には生まれつきの優れた知能があるとすることによって、そのことを説明しがちである。けれども、それを説明する理由は、彼らの生活様式がそういう事実に対して注意を喚起しないで、他の事柄に彼らの精神を集中させていた、ということなのである。感覚が刺激されるために感じうる対象が必要であるのとちょうど同じように、われわれの観察、回想、想像の能力は独りでに働くわけではないのであって、広く一般に行なわれている社会の諸業務によって起こされた要求によって発動させられるのである。性向の素地は、学校教育とは無関係に、そのような影響下で形成された諸能力を解放して、もっと十分に働くようにしてやること、それが能力から粗雑さをいくらか除去してやること、いろいろな対象を与えて、それによって、それらの活動が意味をより多く産み出すことができるようにしてやることである。
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