抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(4)
J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。
第2章 社会の機能としての教育
2、社会的環境
(34-35頁)
共同の仕事において使用された他の諸事物との関連によって音声が意味を獲得した後には、それらの音声は、それらが表わす諸事物が結びつけられるのと全く同じように、それらとよく似た他の音声と関連して用いられ、新たな意味を展開することができる。だから、子どもが、たとえば、ギリシャ人の兜について学ぶ際に使う言葉は、最初は、共通の関心と目的をもつ行動の中で用いられることによって、ある意味を獲得した(つまり理解された)のであった。そして、それらの言葉は、聞いたり読んだりする者を刺激して、兜が用いられるような活動を想像の上で試演させることによって、新たな意味を呼び起こすのである。「ギリシャ人の兜」という語を理解する人は、当分の間、心の中で、その兜を用いた人々の仲間になるのである。彼は、自分の想像力によって、ある共有された活動に従事するのである。言葉の完全な意味を学びつくすことは容易なことではない。おそらく、大部分の人は、「兜」とはギリシャ人と呼ばれる人々がかつて着用した奇妙な種類の被り物をさすという考えにとどまるだろう。そこで、われわれは、次のように結論するのである。すなわち、観念を伝え、獲得するために言語を用いるということも、事物は、共有された経験すなわち共同の活動において用いられることによって、意味を獲得するという原理の拡張であり、洗練なのであって、いかなる意味においても、それは決してその原理に矛盾するものではない、と。明白な事実としてか、想像においてか、そのいずれかで、言葉が共有された情況の中へ要素として入り込まないときには、それは純物理的な刺激として作用するにすぎないのであって、意味すなわち知的価値をもつものとしては作用しないのである。それは、活動がある特定の溝の中を進むようにさせはするが、しかしそこにはそれに伴う意識的な目的ないし意味は少しもないのである。だから、たとえば、プラス記号は、ある数字の下に別の数を書いて、それらの数を加算するという動作を行なわせる刺激となるかもしれないけれど、その動作を行なっている人間が、もし自分の行なうことの意味を自覚したいならば、彼は、自動機械とほとんど同じように働くにすぎないことになるだろう。
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