抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章2(1)
J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。
第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育
(15-17頁)
2、教育と通信(コミュニケーション)
社会が存続し続けるために教授と学習が必要なことは、まったく、あまりにも明白なことなので、われわれは当り前のことを不当に長々と論じているようにみえるかもしれない。けれども、そような強調によって、教育というものを不当に学校教育的な制度的(フォーマル)なものとしてとらえる考えを避けることができるという点で。そのような強調は正当である。実際、学校は未成熟者の性向を形成するところの伝達(トランスミッション)の一つの重要な方法である。がしかし、それは単に一つの手段にすぎず、他のいろいろな働きとくらべれば、わりに表面的な手段なのである。教授のより基本的かつ持続的な様式の必要性が理解されているときに、はじめてわれわれは間違いなく学校教育的方法を正しい背景の中に位置づけることができるのである。
社会は伝達(トランスミッション)によって、通信(コミニュケーション)によって存在し続けるばかりでなく、伝達の中に通信の中に存在するといってよいだろう。共通common、共同体community、通信Communicationという語の間には単なる言語上の関連以上のものがある。人々は、自分たちが共通にもっているもののおかげで、共同体の中で生活する。また通信とは、人々がものを共通に所有するにいたる方途なのである。人々が共同体つまり社会を形成するために共通にもっていなければならないものは、目標、信仰、抱負、知識−−共通理解−−社会学者が言うように同じ心をもつことlike-mindednessである。そのようなものは、煉瓦のように、ある人から他の人へ物理的に手渡すことはできないし、人々がパイを物理的な断片に分割することによってそれを分けあうように、分けあうことはできない。共通理解に参加することを確実にする通信は、同じような情緒的および知的な性向−−期待や要空に対して反応する同じような様式−−を確保するものなのである。
人々は、ただ物理的に接近して生活することだけでは、社会を形成しはしない。そのことは、人が他人から何フィートか、何マイルか遠ざかることによって社会的に影響を受けなくなるわけではないのと同様である。本や手紙は、同じ屋根の下に住んでいる人々の間の結びつきよりも、より親密な結びつきをお互いに何千マイルも離れている人間たちの間にうち立てることがある。また、人々がみな共通の目的のために働いているからといって、彼らが社会集団を構成するわけではない。機械の諸部分は共通の結果をめざして最大限の協力をしながら働くけれども、それらの諸部分は共同体を形成しはしないのである。しかしながら、それらがすべてその共通の目的を知っており、それに関心をもっており、そのためそれらがその共通の目的を考慮しながら自分たちの特定の活動を調節するならば、それらは共同体を形成することになる。だが、このことは通信を必要とするのである。各自は、他のものが何をしているかを知らなければならないだろうし、また、何らかの方法によって自分の目的や自分のしていることに関して他人に知らせておくことができなければならないだろう。合意は通信を必要とするのである。
以上のようなわけで、われわれは、最も社会的な集団の中にさえまだ社会的とはいえない多くの関係が存在するということを認めざるをえない。いかなる社会集団においても非常に多くの人間関係がいまなお機械の場所と同じような段階にある。人々は自分が欲する結果を得るために互いに他を利用しあうが、そのとき自分が利用する人々の情緒的および知的性向や同意を顧慮しはしない。そのような利用は、肉体的優越、または地位や熟練や技術的能力の優越、および機械的ないし財政上の道具の支配をものがたっている。親と子、教師と生徒、雇用者と被雇用者、治者と被治者の関係がこのような水準にとどまっている限り、彼らのそれぞれの活動が相互にどんなに密接に接触しようとも、彼らは真の社会集団を形成しはしないにである。命令を下したり受けたりすることは行動や結果に変化を及ぼすけれども、そのことはひとりでに目的の共有(シェアリング)や関心の共有(コミュニケーション)をもたらしはしないのである。
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