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2021年5月 7日 (金)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章3(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

3、制度的(フォーマル)な教育の位置

(続き)

(21-23頁)

そのような制度的な教育なしには、複雑な社会の資産や業務のすべてを伝達することは不可能である。さらにまた、書物や知識の記号が修得されるのであるから、そのような制度的(フォーマル)な教育は、子どもたちが、もしも他の人々との非制度的(インフォーマル)な共同生活において偶然的に訓練を受けるという状態に放置されていたならば、近づくことのできないような種類の経験をうる道をひらくわけである。

しかし、間接的な教育から制度的(フォーマル)な教育への移行には顕著な危険が伴う。直接的にであろうと、あるいは遊戯によって代理的にであろうと、実際的な仕事に参加することは、少なくとも本人自身が行なう生き生きした行動である。このような特質は、そういうことをやる機会が狭い範囲に限られているという弱点をある程度償う。反対に、制度的(フォーマル)な教授は現実ばなれした生気のない−−ありふれた軽蔑的意味の言葉で言えば、抽象的で書物的な−−ものとなりやすい。低級な社会に蓄積されているかぎりでの知識はどれも少なくとも実践にうつされ、すっかり身についたものになっており、それがさし迫った日々の関心事へはいってくる場合に付着している深い意味を伴って存在しているのである。

しかし進歩した文化においては、学習されなければならないものの多くは記号によって貯えられている。それはおよそ通常の行動や事物に翻訳することができるようなものではない。そのような教材はどちらかといえば専門的で表面的である。現実性についての通常の基準を尺度とすれば、それは人工的である。というのは、この尺度は実際的な関心事とのつながりということにあるからである。そのような教材は、思考や表現の通常の慣習の中に同化されないで、それだけで一つの独立した世界の中に存在しているのである。制度的(フォーマル)な教授の教材には、それが生活経験の主題からは切り離されて、単に学校での主題にすぎなくなってしまう、という危険が常につきまとう。持続的な社会的関心事が視野から見失われてしまうことになりやすい。社会生活の構造の中へもちこまれていないで、主として記号で表わされた専門的知識の状態にとどまっている教材が、学校において目立ったものとなるのである。このようにして、われわれは教育というものの通俗的な概念に達する。すなわち、それは、教育の社会的必要性を無視し、意識生活に影響を及ぼす人間のあらゆる共同生活と教育とが同一であるということを無視して、現実ばなれした事柄についての知識を知らせることと教育とを同一視し、言語記号を通して学問を伝えること、つまり読み書き能力の修得と教育とを同一視することになるのである。

それゆえ、教育哲学がとりくまなければならない最も重要な問題の一つは、教育のあり方の、非制度的(インフォーマル)なものと制度的(フォーマル)なものとの間の、付随的なものと意図的なものとの間の、正しい均衡を保持する方法である。知識や専門的な知的熟練を獲得することが社会的性向の形成に影響を及ぼさない場合には、普通の生き生きとした経験の意味が深められず、他方、それだけ学校教育は、学問の「くろうと」−−すなわち自分本位の専門家−−をつくり出すにすぎないのである。人々が、学習という特殊な仕事によって学んだことを知っているために、自覚的に知っている事柄と、他人との相互交渉を通して自分たちの性格を形成する過程で吸収したものであるために、無自覚的に知っている事柄との間の分裂を回避することは、特殊な学校教育が発達するごとに ますますむつかしい仕事になって行くのである。

(一章本文、ここまで)

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