抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(3)
J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。
第2章 社会の機能としての教育
2、社会的環境
(32-34頁)
言語の多くのことについての学習の主な道具となる傾向があるから、それがどんな風に働くかを調べることにしよう。赤ん坊は、もちろん、まず意味のない、すなわちいかなる観念も表さない単なる音響、雑音、音調から始める。音は直接的な反応を引き起こす刺激の一種にすぎない。あるものは宥めるような効果をもち、他のものは人を跳び上がらせるような傾向があるなど。ボウシという音声は、いく人かの人が参加する行動に関連して発せられるのでなければ、チョクトー族の言葉の音声、つまりうわべは音節のはっきりしない唸り声、と同じように無意味なものにとどまるだろう。母親が乳児を戸外へ連れて出ようとしているときに、彼女はその子の頭に何かを被せながら「ボウシ」と言う。外に連れて行ってもらうことがその子どもの関心事になる。母親と子どもは、ただ物理的にお互いに連れ立って外に出るだけでなく、両者は共に外に出ることに関心をもっている。つまり、その音声は、それが入り込む活動の記号となるのである。言語は相互に理解可能な音声から成り立っているという単なる事実は、それだけで、その意味が共有された経験との関連によって決まることを証明するに足るのである。
要するに、ボウシという音声は、「帽子」という物が意味をもつようになるのと全く同じ仕方で意味をもつようになる、つまり、一定のやり方で用いられることによって意味をもつようになるのである。そして、それらが成人に対してもつのと同じ意味を子どもに対してももつようになるのは、成人と子どもの両方が共通の経験の中でそれらを用いるからである。同じ用い方がなされる保証は、その物とその音声が、子どもと大人の間に能動的な関係をうち立てる手段として、ある共同の活動の中で最初に使用されるという事実にある。類似した観念ないし意味が生ずるのは、両方の人間が、それぞれ一方の行なうことが他方の行なうことに依存し、しかも影響を与えるような行動に、共同者として従事するからである。もしも二人の未開人が共同して獲物を追いかけているとして、ある合図がそれを発する者にとっては「右へ行け」を意味し、それを聞く者にとっては「左へ行け」を意味するとしたら、明らかに、彼らは狩猟を一緒にうまくやって行くことができないだろう。相互に理解しあうということは、音声をも含めて、諸事物が、共同の作業を営むことに関して、両者にとって同様の価値をもつ、ということを意味するのである。
(続く)
« 抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(2) | トップページ | 抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(4) »
« 抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(2) | トップページ | 抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(4) »
コメント