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2021年5月 7日 (金)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章3(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

3、制度的(フォーマル)な教育の位置

(19-21頁)

したがって、あらゆる人が、ただ生存し続けるだけでなく真に生活する限り、他の人々とともに生活することから受ける教育と、計画的に子どもを教育するすることとの間には、著しい差異がある。前の場合には、教育は付随的である。それは自然で重要なものではあるが、しかし共同生活のとりたてて言うほどの理由ではない。経済的、家庭的、政治的、法律的、宗教的などの、あらゆる社会制度の価値は、それらが経験を拡大し改良する効果によって測られると言っても誇張にはならないと思われるが、それでも、この効果はその制度の本来の動機の一部ではないのであって、その本来の動機は狭く限られており、もっと直接的で実際的である。たとえば宗教的結社は世界を支配している諸力の恩恵を得、邪悪な力を防ぎたいという願いから生まれたのであり、家族生活は欲求を満たし家族の永続を確保するために生まれたのであり、組織的労働はたいていの場合他者への隷属のために生じたのである、等々。制度の副産物、つまりその制度が意識生活の質の範囲とに及ぼす効果は、ただ徐々に注目されるようになったにすぎない。そしてこの効果が制度運営の指導的要因と考えられるようになったのは、さらにいっそうゆっくりとであった。今日においてさえ、われわれの産業上の生活においては、勤勉とか倹約という一定の価値を別にすれば、世の中の仕事を営んで行くために人間が結成する共同生活の諸形態が知的および情緒的な面でどんな反作用を及ぼしているかは、その物質的産物とくらべて、少ししか注目されていないのである。

しかし、直接人間に関わる事実としての、共同生活という事実そのものは、子どもを扱う場合には、重要さを増すのである。子どもたちとの接触において、子どもたちの性向に及ぼすわれわれの行動の効果を無視したり、そのような教育的効果をなんらかの外的な明白な結果よりも軽視したりすることはたやすいとはいえ、そのことは成人に対する場合ほど容易ではない。訓練の必要があまりにも明白なのである。つまり、子どもたりの態度や習慣にある変化を与えなければならないという必要が非常にさしせまったものであるため、これらの結果を全く考慮しないでいることはできないのである。子どもたちに対するわれわれの主な務めは彼らを共同生活に参加できるようにしてやることなのである。われわれは、そうすることができるようになる能力を彼らが形成しつつあるかどうかを考えざるをえないのである。あらゆる制度の究極的な価値が、それの特に人間的な効果−−それが意識的経験に及ぼす効果−−にあるということを、人類はいくらかはっきりと理解するようになっているが、この教訓は主として子どもたちとの交渉を通じて学びとられたのだと考えてさしつかえないだろう。

以上のようなわけで、われわれは、これまで考察してきた広い意味での教育課程の中に、さらに制度的(フォーマル)な種類の教育−−直接的な教授や学校教育−−を区別するようになる。未発達の社会集団には、制度的(フォーマル)な教授や訓練はほんのわずかしか認められない。未開な集団では、主としてその集団に対する大人たちの忠誠を保持するための共同生活と同じ種類の共同生活によって、必要な性向を子どもたちに教え込む。未開な集団には、若者を社会の完全な成員に仲間入りさせるための成人式に関連するもののほかには、教授のための特殊な機関も教材も制度も存在しない。たいていの場合、未開の集団は、子どもたちが、年長者の行なっていることに参加することによって、大人たちの慣習を学びとり、大人たちの情緒的態度や観念の蓄積を習得することをあてにしているのである。幾分かは、この参加は直接的である。大人たちの仕事に参加し、そうして見習い期間を過すのである。また幾分かは、その参加は間接的である。子どもたちが大人たちの行動を模倣し、そうすることによって大人たちの行動がどのようなものであるかを知るようになる模倣的な遊びを通じて行なわれるのである。未開人にとっては、人が学ために専ら学習だけが行なわれているような場所を捜し出すことは、途方もなく愚かしいことと思われたであろう。

しかし文明が進歩するにつれて、子どもたちの能力と大人たちの仕事の間のギャップは拡大する。大人たちの仕事に直接参加することによる学習は、あまり進歩していない仕事の場合のほかは、ますますむずかしくなる。大人たちがすることの多くは、距離的にも意味的にも次第に縁遠いものとなり、そのため遊戯としての模倣は次第にその真意を再現するのにますます不適当なものとなって行く。こうして大人の活動に有効に参加する能力は、この目的を目ざして前もって与えられる訓練に依存することになるのである。意図的な期間−−つまり学校−−およびはっきりきまった教材−−つまり学科−−が案出される。そして、一定のことを教えるという仕事が、特別な人々の集団に委任されるのである。

(続く)

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