抜書き

2023年9月20日 (水)

「日記をつける注意(一)」斎藤喜博。

「日記をつける注意」

『斎藤喜博全集1』国土社、1969年(474-475頁)。

 

 私は児童の日記を単に個人別に検閲し指導するだけでなく、常に全体的な指導も続けている。すなわち、全児童の日記をひととおり見た結果、心づいたことを引きぬいてまとめ、これをプリントして全児童に渡し、説明するのである。

 このプリント「日記をつける注意」は連続していくので、だんだんと指導されてた、また指導した経過がわかっておもしろい。

 つぎに五年女生に与えたプリントの最初のものを記してみる。

 

日記をつける注意(一)

◯真実の心の姿を書くこと。

 ありのままの心、ありのままの感想を正直に書きなさい。

 ほんとうの皆さんの心の姿のあらわれている日記が尊いのです。

 毎日毎日同じことが書いてある日記は、読んでいて心を打たれる何ものもありません。心を打たれるもののないのは、ほんとうに皆さんの心が書いてないからです。

◯その日その日の反省すべき問題、また最も心に感じた問題を選び出して日記につけなさい。それが反省となり感想となるのです。

◯そしてくだらないことを長々しく書かないようにしなさい。

 最も強く心に浮かんでいるもの、それだけをできるだけ細かく自分の心に聞いて書きなさい。

 それが日記としてもまた綴り方としてもよいのです。

◯できるだけ漢字を使うように努力しなさい。努力して使っているうちに漢字はおぼえられるものです。

◯ただ「きょうは勉強がよくできてうれしい」「きょうはできるなくてなさけない」などと書く人はだめです。

 こんな人こそほんとうになさけないと思います。よくできたらどうしてよくできたのか、できないのはどうしてか、それらについて細かい深い反省ができるはずです。またそのほかいろいろの細かい感じも心には起こっているはずです。それらを正直に書くのです。それがあなた方の真実の姿なのです。

◯先生のところへ出すのを楽しみにしている人がいいますが、たいへんよい心がけだと思います。先生もそういう人のをいっそう楽しみにして見ています。(七月十七日までの日記を見て)

2023年8月30日 (水)

教育者・島木赤彦(6)

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』岩波書店、1994年(第6刷)。

「単純化」『歌道小見』より(43頁)

歌われる事象は、歌う主観が全心的に集中されれば、されるほど単一化されてまいります。写生が事象の核心を捉えようとするのも、同じく単一化を目ざすことになるのでありまして、単一化は要するに全心の一点に集中する状態であります。この消息の分からぬ人々が、短歌に、複雑な事象や、もしくは哲理や思想など駢列して得意としております。そういう人々は、短歌を事件的に外面的に取扱っているのでありまして、短歌究極の願いが、一点の単純所に澄み入るにあることを知らないのであります。

 

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』(岩波書店)

教育者・島木赤彦(5)

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』岩波書店、1994年(第6刷)。

「歌の調子」『歌道小見』より(32−33頁)

短歌における表現は、単に歌の言語の持つ意味の上に現れて、それで足りているとすることはできません。その表現しようとする感動の調子が、歌の各言語の響きや、それらの響を聯(つら)ねた全体の節奏の上に現れて、初めて歌の生命を持ち得るのであります。歌の言語の響き・節奏これを歌の調べ・調子もしくは声調・格調などと言います。

我々の感動は、伸び伸びと働く場合、ゆるゆると働く場合、切迫して働く場合、沈潜して働く場合というように、個々の感動に皆特殊の調子があります。その調子が、宛らに歌の言語の響きや全体の節奏に現れて、初めて表現の要求が充(みた)されるのであります。この調子の現れは、意味の現れと相軒輊(あいけんち)するところないほど、短歌表現上の重要な要求になるのでありまして、古来より秀作は、皆、歌の調子が作者感動の調子と快適に合っているため、永久の生命を持つほどの力となっているのであります。

 

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』(岩波書店)

2023年8月29日 (火)

教育者・島木赤彦(4)

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』岩波書店、1994年(第6刷)、27-28頁。

「写生」『歌道小見』より

私どもの心は、具体的事象との接触によって感動を起こします。感動の対象となって心に触れ来る事象は、その相触るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。さような接触の状態を、そのままに歌にあらわすことは、同時に感動の状態をそのままに歌に現すことにもなるのでありまして、この表現の道を写生と呼んでおります。私の前に直接表現と言うたのも、多くこの写生道と相伴います。感動の直接表現といえば、嬉しいとか、悲しいとか、寂しいとか、懐かしいとか、いわゆる主観的言語を以て現すことであると思う人が多いのでありますが、実際は多くはそうでないのであります。一体、悲しいとか、嬉しいとかいう種類の詞は、各人個々の感情生活から抽出された詞でありまして、いわゆる感情の概念であります。概念は一般に通じて特殊なる個々に当て嵌まりません。我々の現したいものは、個々特殊なる感情生活ではありますから、概念的言語を以て緊密に表現することはむずかしいのであります。かなしいと言えば甲にも乙にも通じます。しかし、決して甲の特殊な悲しみをも、乙の特殊な悲しみをも現しません。歌に写生の必要なのは、ここから生じてきます。つまり、感情活動の直接表現を目ざすからであります。

 

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』(岩波書店)

2023年6月14日 (水)

教育者・島木赤彦(3)

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』岩波書店、1994年(第6刷)、26頁。

「歌を作す第一義」『歌道小見』より

自己の歌をなすは、全心の集中から出ねばなりません。これは歌を作すの第一義でありまして、この一義を過って出発したら、終生歌らしい歌を得ることは出来ません。自ら全心の集中と思うものでも、案外、一時的発作に終わるような感動があります。さような感動は、数日を経過し、十数日を経過するに及んで、心境から霧消しております。そういうものは、自己の根底所に根ざした全心の集中とは言われません。そうして見ると、歌を作す機会は、存外多くあるものではありません。心の中に軽く動いて軽く去るような感動は、それをどう現しても、要するに軽易な作品に堕ちてしまいます。

 

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』(岩波書店)

2023年6月13日 (火)

教育者・島木赤彦(2)

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』岩波書店、1994年(第6刷)、23−24頁。

「古歌集と自己の個性」『歌道小見』より

私が、万葉集及びその系統を引いている諸歌集に親しむことが大切であると言うのに対して、世間往々反対の説をなすものがあります。歌は素と作者自身の感情を三十一音の韻律として現すべきものである。それであるのに、千年以上も昔の歌集を読んで歌の道を修めよというのは、生き生きした現代人の心を殺して、千年前の人心に屈服せしめようとするものであって、少くも現代人の個性は現れるはずがないというのであります。この説一通り後尤もでありますが、人間の根本所に徹して考えた詞でありません。歌には歌の大道がある。その大道の由って来る所に礼拝するのは、自分の今踏まんとする大道を礼拝することであり、自分の踏まんとする大道を礼拝することは、自分の個性を尊重する所以になるのであります。仏教の真の行者は、皆、己れを空しくして釈尊の前に礼拝します。己れを空しくし、いよいよ空しくして、一向専念仏に仕うる行者にして、初めて、真の個性を発現させることが出来ます。法然、親鸞、道元、日蓮の徒皆この類でありましょう。この消息に徹せずして、今人説く所の個性は、多く目前の小我でありまして、有るも無きももよく、無ければなおさらよいほどの個性であります。

 

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』(岩波書店)

2023年6月10日 (土)

教育者・島木赤彦(1)

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』岩波書店、1994年(第6刷)、11−12頁。

「古来の歌」『歌道小見』より

短歌は、最も古くから日本に生れた詩の一体であって、それが長い間の流れをなして今日に伝わっているのでありますから、歌の道にあるほどの人は、古来の歌の中で、少くも権威を持っている歌人の歌を知る必要があります。そうでないと、往々、一人よがりの作品に甘ずるような結果を生じます。明治三十年代和歌革新以後にあって、多少素質のいい作品を遺したと思われる人の歌を見ても、この人が、どれほどまで古人の歌の前に礼拝したかということを思うて、その作品に、或る遺憾を感ずる場合があります。

我々は、自分が生れる時授けられた性情の一面を歪めたり、遺却したりして生長しているのが普通であります。現世の環境に歪みがあり、虧欠があるからでありましょう。その遺却さえ歪められたものが、古人の作品に接触うることによって、覚まされたり、補われたりすることが多いのでありまして、さような問題に無関心で歌を作している人は、自分では自分全体を投げ出しているつもりでも、それが、なお、一人よがりに終る場合が多いようであります。勿論、古人の作品に接することが、自己を覚醒し補足することの全部であるとは思いませんが、歌の道にあるものが歌の由来する所を温ねて、そこから啓示されるということは、直接で自然な道であろうと思います。歌に入ろうとする人も歌の道に久しくおる人も、この意味で、古人の作品に常に親しむことが結構であると思います。それは、古人の作品を見本にして歌を作すこととは違います。

 

島木赤彦著『歌道小見・随見録-他一篇』(岩波書店)

2021年7月29日 (木)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章 要約

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

要約

連続し発展して行く社会の生命にとって必要な態度や性向を子どもたちの内部に発達させることは、信念や情緒や知識の直接的な伝達によってなしうることではない。それは環境という媒介物を通してなされるのである。環境は、ある一個の生物に特有な活動の実行の関わりをもつ諸条件の総和から成る。また、社会的環境とは、その成員の中のある一人の活動の営みに堅く結びつけられている仲間たちの活動全体から成る。それは、ある個人が何らかの連帯的活動に関与つまり参加する程度に応じて、真に教育的効果を発揮する。人は、共同活動における自分の役割を果たすことによって、その共同活動を駆り立てている目的を自分のものとして、その方法や対象を熟知するようになり、必要な技術を獲得し、その情緒的気風に浸るようになるのである。

子どもたちが、だんだんといろいろな集団に属して行き、それらの集団の活動を分担するようになるにつれて、意識的にそうしようとしないでも、いっそう深くいっそう根本的な教育的成功形成がなされるようになる。しかしながら、社会がいっそう複雑になるにつれて、未成熟者の能力の養成に特に気をつけるような特別の社会的環境を設置することの必要性が明らかになる。この特別な環境の比較的に重要な三つの機能を列挙すれば、それによって発達させることが望まれている性向の諸要素を単純化し、順序づけること、現存する社会的慣習を純化し、理想化すること、子どもたちを放任しておいたら、おそらくその影響を受けるであろうような環境よりも、いっそう広く、いっそうよく均衡のとれた環境を創り出すことである。

2021年7月28日 (水)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章4(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

4、特殊な環境としての学校

(続き)

(41-42頁)

第二に、現存する環境に含まれている価値のない諸特徴を、それらが心的習性に影響を及ぼすものの中に入り込まないように、そこから、できるだけ、取り除くことが、学校環境の任務である。それは鈍化された行動の環境を設立するのである。選択は、単純化を目ざすだけでなく、望ましくないものを除去することも目ざすのである。あらゆる社会は、つまらぬものや、過去から持ち越された厄介物や、さらに積極的に邪悪なものを背負い込まされる。学校は、自分が提供する環境からそのようなものを取り除き、そうすることによって、通常の社会的環境の中にあるそれらのものの影響を打ち消すために、自分にできることをする義務をもっているのである。専ら最良のものだけを使用するために最良のものを選び出すことによって、学校は、この最良のものの力を強化することに努める。社会は、いっそう開化して行くにつれて、現存する業績の全体を伝達し保存することではなくて、よりよい未来の社会に寄与するようなものだけを伝達し保存する責任がある、ということを悟るのである。学校は、この目的を達成するためにの社会の主要な機関なのである。

第三に、社会的環境の中のいろいろな要素に釣り合いをとらせ、また、各個人に、自分の生まれた社会集団の限界から脱出して、いっそう広い環境と活発に接触するようになる機会が得られるように配慮してやることが、学校環境の任務である。「社会ソサエティ」とか「共同体コミュニティ」というような語は5回をまねきやすい。というのは、それらの語は、その一語に対して一つの単一の事物が存在すると思われがちだからである。しかし実際には、一つの近代社会は、多少緩く結びつけられた多数の社会なのである。親族という直接的な延長をもつ各世帯は一つの社会を成し、村や街の遊び仲間も一つの共同体なのであり、社会集団やクラブもそれぞれまた別の共同体である。これらの比較的親密な集団を越えて、わが国のような国の中にには、いろいろな民族や、宗教的結合や、経済的区分が存在する。近代都市の内部には、名目上の政治的まとまりがあるとはいえ、おそらく、かつての時代に大陸全土に存在したよりも、多くの共同体が存在し、多くの区々に相違する慣習や、伝統や、抱負や、統治あるいは支配の諸形態が存在する。

そのような集団は、それぞれに、その成員の活動的性向に対して形成的な影響を及ぼす。教会や労働組合や商売仲間や政党などと同じように、徒党もクラブも一味もフェイザン(子どものすりやどろぼうを手先に使う老悪漢、Dickensの小説Oliver Twistの中の人物)の泥棒一家も刑務所の囚人たちも、確かに、それらの集団的ないし連帯的な活動に加わる者たちに対して教育的な環境を提供するのである。それらはどれも、家族や町や国家と同じくらいに、共同生活つまり共同体生活の一様式なのである。また、芸術家の組織とか、文壇とか、地球上に散らばっている専門的な学会の成員のような、その成員同士がお互いに直接的な接触を僅かしかもたなかったり、あるいは全くもたないような、そういう共同体も存在するのである。というわけは、彼らは目的を共有しており、しかも各成員の活動は、他の成員が行っていることについての知識によって直接限定されるからである。

昔は、集団の相違は、主として地理上の問題であった。多くの社会が存在したが、それぞれは、その地域の内では、比較的に均質であった。しかし、商業、運輸、相互通信、移住の発展とともに、この合衆国のような国々は、いといとな伝統的慣習をもついろいろな集団の結合で構成されたものとなるのである。このような事態こそ、おそらく他のいかなる理由にもまして、子どもたちに、均質的で、しかも均衡のとれた環境というようなものを与えてやるようにな教育施設を必要不可欠なものとした最大の理由なのである。ただこのような方法によってのみ、同一の政治的単位内のさまざまの集団の並存が引き起こす遠心的な力を打ち消すことができるのである。いろいろな民族の、さまざまの宗教をもち、異なった慣習をもった若者たちを学校で混ぜ合わせることによって すべてのもののための、新しい、しかもいっそう広い環境が創り出される。共通の教材が与えられることによって、すべてのものが、孤立状態におかれた集団の成員のもちうる視野よりもいっそう広大な視野に立って統一的な見地に慣れて行くのである。アメリカの公立学校の同化力は、共通で均衡のとれた感化力の有効性を物語る雄弁な証拠である。

さらにまた学校は、一人ひとりの人間について、彼が入り込むいろいろな社会的環境が及ぼす種々雑多な影響を彼の性向の中に調整統合してやるという機能をもっている。家庭の中ではある掟が幅を利かせており、街では別の掟が、工場や商店ではまた別の掟が、宗教的結社ではさらに別の掟が幅を利かせている。人は、ある環境から別の環境へ移るとき、お互い相反する力で引っぱられ、そして、引き裂かれて、異なった判断や情緒の基準をもつ人間になる危険にさらされている。この危険があるゆえに、安定化と統合の任務が学校に課せられるのである。

(第2章本文、ここまで)

2021年6月 9日 (水)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章4(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

4、特殊な環境としての学校

(39-41頁)

人々の意志に関わりなく否応なしに進行する教育的過程についてこれまでに論述してきたことの第一の重要な点は、われわれがそれによって次のことに気づくようになることである。すなわち、成人たちが未成熟者の受ける教育の種類を意識的に統制する唯一の方法は、未成熟者がその中で行動し、それゆえ、そこで考えたり、感じたりするところの、環境を統制することによるのだ、ということである。われわれは決して直接に教育するのではないのであって、環境によて間接的に教育するのである。偶然的な環境にその仕事をさせておくか、それとも、その目的のために環境を設計するかどうかは、非常に大きな差異を生ずる。そして、いかなる環境も、その教育的効果に関して計画的に統制されていないならば、それは、その教育的影響に関する限り、偶然的な環境にすぎない。知的な家庭で幅を利かせている生活や人との交わりの習慣が、子どもたちの成長にとってどんな関係をもつかを考慮して、選択されているか、少なくとも色づけられている、という点である。とはいえ、学校は、言うまでもなく、やはり、その成員の知的および道徳的性向に影響を与えることを特に考慮して構成された環境の典型的な例であることに変わりはない。

大まかに言えば、社会の伝統が非常に複雑になって、その社会的蓄積の相当の部分が文書に書き留められ、文字記号によって伝達されるようになるとき、学校が出現するのである。文字記号は音声記号よりいっそう人工的ないし形式的である。それは他の人々との偶然的な交わりの中で身につけることのできるものではない。その上、文書形式は、日常の生活には比較的に縁のない事柄を選んで記録する傾向がある。世代から世代へと積み重ねられてきた業績は、たとえその中のいくらかが一時的に使用されなくなったとしても、文書形式で保管されるのである。その結果、ある共同社会が、その地域や、その時代を越えたところに存在するものに、かなりの程度、依存するようになるやいなや、その共同社会は、自己のすべての資産の適切な伝達を確実にするために、学校という確固たる機関にたよらなければならなくなるのである。明白な実例を挙げれば、古代のギリシャ人やローマ人の生活はわれわれ自身の生活に深く影響を及ぼしているのだが、彼らがわれわれに影響を及ぼす方法は、われわれの通常の経験の表面には現われてこない。同様に、現存してはいるが、空間的に遠く離れている民族、イギリス人やドイツ人やイタリヤ人も、われわれ自身の社会の事柄に直接関わりをもっているのだが、その相互作用の本質は、はっきりと述べられ、注目されるのでなければ、理解することができないのである。そしてまた全く同様に、遠く離れた物理的エネルギーや目に見えない構造が、われわれの活動の中で果たす役割を、子どもたちに説明してやることも、われわれの日々の共同生活に期待することはできないのである。それゆえにこそ、そのような問題について配慮して、社会的な交わりの特別な様式、つまり学校が設立されるのである。

この共同生活の様式は、通常の共同生活に較べて、特記するに足るほど特殊な三つの機能をもっている。第一に、複雑な文明は、あまりにも複雑すぎて、丸ごと同化することはできない。それは、いわば、部分に解体されて、漸進的な段階的なやり方で、少しずつ同化されなければならないのである。現在の社会生活の諸関係は、あまりにも多岐にわたっており、しかも互いに錯綜しているので、最もめぐまれた境遇におかれている子どもでも、それらの関係の中の数多くの最も重要なものに容易に参加することができないほどである。だが、それらの関係に参加しなければ、それらの意味は、彼に伝えられないだろうし、彼の精神的性向の一部となることもないだろう。森を見て、木を見ないことになるわけである。職業的活動も政治も芸術も科学も宗教も、すべてが一度にわめきたてて注意を引こうとして、結局は混乱が残るだけだろう。学校は、まず、かなり基本的で、しかも子どもたちが反応することのできる社会関係の特徴的要素を選び出す。そして、次第に複雑なものへ進んでいくような順序を立てて、いっそう込み入ったものを洞察するための手段として先に習得した要素を利用するのである。

(続く)