東井義雄

2024年7月21日 (日)

学校土壌論(3)〜東井義雄2

「上農は土をつくる」 東井義雄

『東井義雄詩集』探究社、平成元年、241−242ページ

 

お百姓さんから教えてもらったことばがあります

下農は雑草をつくり

中農は作物をつくり

上農は土をつくる

ということばです

あなたの仕事を省みて「なるほど」と思いませんか

 

「作文」だけがんばっていても「作文」が育つものではありません

「理解」だけがんばっていても「理解」が育つものではありません

「勉強」「勉強」と「勉強」攻めにしていても「勉強」は育ちません

 

自転車のタイヤを直接ささえているおんは三センチの道はばであっても

はばが三センチの道を自転車で走ることは不可能です

直接はたらいているように見えないところも

間接に大切なはたらきをしているのです

 

だからこそ

「上農」は「土」をつくるです

どうか どうか

子どもの生活全体を

豊かな たくましいものに

育ててやってください

「遊び」でしか育て得ないものをも奪ってしまうことを自戒しましょう

「家庭」でしか育て得ないものまでも「学校」が奪ってしまうことを警戒しましょう

 

教育の「土」をつくる教師を目指しましょう。

 

2024年7月 3日 (水)

学校土壌論(2)〜内山興正

学校土壌論〜禅僧・内山興正の言葉。

  • 内山興正(1912–1998年)

Amazon 著者についてより)明治45年、東京に生まれる。早稲田大学西洋哲学科を卒業、さらに2年間同大学院に在籍後、宮崎公教神学校教師となる。昭和16年、澤木興道老師について出家得度。以来坐禅修行一筋に生き、昭和40年、澤木老師遷化の後は、安泰寺堂頭として10年間弟子の育成と坐禅の普及に努める。平成10年3月13日、示寂。

はじめに申し上げたように、私は子供を持っていません。しかしその代わりに大勢の弟子がおります。沢木老師がおられたあいだは、私は修行にのみ打ち込んでいればよかったのですが、老師が亡くなられて安泰寺の跡を継ぎ、弟子たちがふえるに従って、私は頭を切り換えました。もはや修行者ではなく、同時に教育者であらねばならないと覚悟をあらたにしたのです。

そこで、どういう教育方針でのぞむか考えたのですが、弟子を作物にたとえては申しわけないが、私は、安泰寺という畑で、弟子たちという作物をつくる気になった。それまで長年畑作りをやってきたので、こう考えると分かりやすいのです。事実、畑こそは生命をほんとうに育てるところです。畑作りは、生命にボタンを押す、スイッチをひねるといった機械的なことでできるわけがない。

では、安泰寺という畑で、弟子という作物を育てるにあたって、一番大切な太陽に相当するものはなにかといえば、それは坐禅です。

いきなり「坐禅」を持ち出すと皆さんはとまどうかもしれませんが、実は坐禅こそがいまほど申し上げた「スミレにはスミレの花が咲く」ということのもっとも端的な「行」であるからです。つまり坐禅とは、かいつまんでいえば、おのおのの各人の生命が生命すること、生命を純粋に発現すること、あるいは生命が生命を祈る姿といってもいい。

もともと私は弟子たちを教育するにあたって、その根本目標を弟子たちのすべてが筋金入りの坐禅人になることにおいています。筋金入りの坐禅になるには、当然坐禅人に打ち込まなければならない。それというのも坐禅こそが坐禅を行ずる各人に「スミレにはスミレの花が咲く。バラにはバラの花が咲く」という生命力を与えるものだからです。

では安泰寺にとって、太陽についで、大地にあたるものはなにかといえば、それは安泰寺という道場の雰囲気です。

大地は、深くこまやかにたがやされ、空気の流通をよくしておかねばならない。カチカチに固まった土で、一般社会から孤立した閉鎖的なものでは、人間は偏狭になり、狂信的になり、ヒステリックになる。他の社会からの空気が柔らかな土のなかに自由に入りこんでくればこそ、肥料分も醸成され、それを吸収する食欲も消化力もわきおこってくる。

私が及ぼずながら本を書いたり、求められれば講演に出かけたりするのも、多分にそのためを思ってのことです。それでいささかでも安泰寺の存在が世間に知られ、心ある人たちが訪ねてくるようになる。すると訪れてくる人たちが新しい空気を安泰寺に送りこんでくる。そこによって弟子たちは世間の問題を知り、世間の問題に関連して坐禅の意味をさらに深く認識してゆくに違いない。

(略)

だいたい教育というものは「ああしろ」「こうしろ」「これはいけない」と外から規制すべきものではありません。それはさきほどのナスの木にむかって「実がなれ」と命ずるようなもので、そうではなく、なによりも大切なのは自己自身の生命に食欲がおこることです。その食欲がおこるために肝要なものは、環境であり、雰囲気であり、地盤である。いいかえれば空気の通りのいいい、よくたがやされた、かつ程度の高い、安泰寺という大地です。

 

次に作物が育つために不可欠なものは水です。

水は根を潤おし、柔軟にし、吸収力をよくする。同時に肥料分を溶かして、水という形で根が吸いあげやすいようにする。

では安泰寺という畑における水とは何かといえば、それは托鉢や作務、つまり実際にからだを動かして働く生活です。

幸いにしてわれわれの寺は全く無収入なので、われわれが食べる分は托鉢して集めてこなけれならない。托鉢といえば町を歩いてお金をただもらってくるのだから、さぞ楽だろうと思われるかもしれないが、決してそうではありません。若い者といえばネコもしゃくしもカッコいい姿で町を歩きたがるいまどき、墨染の法衣を着て、網代笠をかぶり、草鞋脚絆といういでたちで町を歩くのだから、まずそれだけでも楽ではない。なかには酔狂は通行人もいて、そんな姿で托鉢しているわれわれを罵ったり、からんだりする。私の弟子たちはそれを乗りこえて、すべての人々からお金をもらい、そのお金で修行生活を営むのですから、生活そのものに実が入ってこざるを得ない。

また作務というのは、畑を作ったり、薪を割って運んだり、寺の建物を修繕したりする日常の仕事です。

安泰寺には文明の利器といえば電灯だけで、ガスもなければ水道もない。近ごろは弟子もふえたし、参禅会や接心にくる人たちも大勢になったので、先日新しい井戸を一つ掘りましたが、これも修行者たちの力だけでやった仕事です。また二階建ての古家を一軒もらったので、解体して本堂の裏に物置として建てなおしましたが、これも皆が協力してやった仕事です。坐禅修行も、こうした実際のからだを動かす仕事を通じてはじめて身につくものなのです。

(略)

最後に、作物にとって大切なものは肥料ですが、安泰寺の場合は、これは当然私が弟子たちに仏法の話をすることでなければなりません。その肥料はなるべく濃いものをたっぷり与えたいのが人情ですが、これはよくない。畑作りでも濃い肥料を沢山やると根が焼けて、一番大切な吸収力がなくなる。肥料というものは生命の吸収力に応ずるために、薄く、適当な量でなければならない。その点今日の学校教育の詰め込み主義や、いわゆる教育ママのやりかたは、子供の勉強意欲、吸収力、消化力を失わせるものです。

そこで私は弟子たちにはなるべく口を挿まないよう、仏法の話も、なにより自分自身が求道心を起こすことが大切なので、弟子たちが自ら積極的にやる気を起こすようにというねらいで話すことにしています。

これを要するに、私の弟子たちへの姿勢は「見守り、見張らず」ということに尽きます。一般の学校の先生やお母さん方のやりかたは、どうもこの逆のように見受けられる。子供たちを見守るという心ではなく、まるで子供たちはいつでも悪いことばかりしたがっていると決めこんででもいるように「また悪さをするんじゃないか、いうことを聞かんのじゃないか」と見張っている。「あれをしてはダメ、これをしてはいかん」と口やかましく小言ばかりいう。一番かんじな子供の生命そのものがすくすく伸びるのを見守るという心を忘れているように見えるのでえすが、どうですか。

これではいけないのです。

最初にきびしいことを申し上げましたが、今日の親たちがわが子を生命として見ていないというのはそこです。その心には、祈りがない。生命を拝み、生命を祈るという気持ちが全く欠けている。無生命の社会の部品として、わが子をはめこむことばかり考えているといわざるを得ない。

いわずにおられないと申し上げたのは、ここです。

もう一度申し上げます。子供は、この世に送りだされた、新しい生命です。どこまでもこの生命を、拝み、祈るという心に目ざめていただきたいと思います。

学校土壌論(1)〜東井義雄

学校土壌論〜東井義雄の言葉3つ。

○下農は雑草を作り 中農は作物を作り 上農は土を作る

○根を養えば、樹はおのずから育つ。根の深さとひろがりが、樹の高さと広がりになる。

○見ないところがほんものにならないと、見えるところもほんものにならない。

2021年4月30日 (金)

抜書き:島秋人 著『遺愛集』「あとがき」

島秋人『遺愛集』東京美術、昭和42年12月より。

※島秋人については、東井義雄・斎藤喜博が、教育の根本の話として言及している。

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〜あとがき〜
 春分の日が近い。そとには私の好きな菜の花が咲いているだろうか。この罪を犯してから六年になろうとしている。一日、一日がかけあしで過ぎた感がする。罪人の心が有形のもの、無形のものに育くまれ、その情に洗われた裸の思念が数百首の短歌となり、この「遺愛集」となった。感謝であり、幸せである。ひと頃の私を知る人は変ったと思うだろうし、又、自身でもそうと感じて生きている。
 身は悲しむべきであるが、心はうれしいのである。
 私が短歌を始めた事のなりゆきは、昭和三十五年の秋に拘置所の図書を一冊読んでであった。それは、開高健著の「裸の王様」を読んでのことであった。その中に、絵を描くことによって暗い孤独感の強い少年の心が少しずつひらかれてゆくと云うすじであって、当時の私の心をうった読後感とともに、私は絵を描きたい、そして童心を覚ましたい、昔に帰りたい思いを強くさせられた。しかし、当時は絵を描くことを許されていなかった身には、描きたい思いがふきあがって来るだけで絵は描けなかった。せめて、児童図画を見ることによってと思い、図画の先生でもあった、又、ほめられた事の極めて少ない私が図画の時間に絵はへたくそだけど構図がよいと云ってほめられた事のある先生であり、中学一年の時担任の先生でもあった、吉田好道先生に当時の身分と理由とを書き、子供の描いた図画が欲しいとお願いした。
 その返書は、親身なもので、自分に対するおどろきと反省をよびおこす優しさで満ちていた。同封されて奥様の手紙があり、その中に少年期を過した家の前の香積寺とそのお住職様を詠んだ短歌が三首添えてあった。これが私の短歌に接した初めであって、過ぎし日のなつかしさもあり歌は何とよいものであろうかと思った。これがきっかけとなり、又、刺激ともなって、自身にふさわしいものとし得て、時折りに詠みはじめ詠んで今日に至っている。
 低能児と云われた程に能力におとる私であったが、幸いにと云うか不幸と云うか四国の松山刑務所で覚えた俳句の素養が助けとなって数は少ないながら、「裸になれ」と念じながら詠み重ねて続いた。又、毎日新聞、朝日新聞、朱、まひる野、その他雑誌にも投稿もし、あまり物事にながつづきしない私は短歌だけはどうゆうわけか、たどたどしいながらも四年以上続いている。毎日歌壇では、昭和三十八年の上半期の窪田空穂先生の選で、毎日歌壇賞をいただき、生涯に唯一度の賞というものを授かったよろこびも味い得たのである。
 いままで、いろいろの方々から厚意をよせられたり、手紙をいただいたが現在は、ほとんど文通も絶えている。中に、二、三の方々は私の歌集を出してあげよう、出さして欲しいと云って下さった。これらはみなおことわりしたが一人だけ私の思いのままの歌集を出してあげると云われた方が居り、一時は、あえて生前出版をしようとしたのであったが、途中で意見に違いが出来て結局は中止する事になった。その時に窪田空穂先生に無理云って、書いていただいたのがこの歌集にある序文である。序文の中に叱りがふくまれてあるのは、私の考えの浅かった事を指していて、今もなお、読む都度にありがたいのである。
 窪田空穂先生に相談して生前の出版はとりやめ、死後に出版して下さろうと云う方に希望を遺していますが、何かさびしい心残りともいうべき思い、愛しみを遺すものがこの一巻であり、生前出版しようとした稿に加えて今日迄の歌を書き添えた。
 最近私は養母を得た。死後に角膜を差し上げること、死体を役立てるために必要な事によって養母になってもらった千葉てる子と云う人は、長い間私の義姉としてキリストを信じさせてくれいろいろなわがままを聞いてくれた人であり、私にとって生みの母におとらない母である。私は心のままに「おかあさん」と書いて手紙を出している。誠に幸せに余る日日を過している。
 母を得て感じる事は自身の罪の重大さである。母を亡した被害者のお子様に対するお詫びであり、死をもってする詫びでありながら足りない申しわけないこと、詫びて済まない日日の悔悟であり、人の、すべての生あるものの生命のいかに尊いものかを悟らされたことである。
 この思念が遺愛集であり、私の至り得た生命のすべてである。
昭和四十年三月
島秋人 〜「あとがき」に添えて〜
 この澄めるこころ在(あ)るとは 識(し)らず来て刑死の明日に迫る夜温(ぬく)し。処刑前夜である。人間として極めて愚かな一生が明日の朝にはお詫びとして終るので、もの哀しいはずなのに、夜気が温いと感じ得る心となっていて、うれしいと思う。後記は前坂和子君によって書かれ、私の作歌の内容的な事は読まれると思います。
 私は、あとがきに添えて刑死の前夜の感を書こうと思いました。私は短歌を知って人生を暖かく生きることを得たと思い、確定後五年間の生かされて得た生命を感謝し安らかに明日に迫った処刑をお受けしたい心です。知恵のおくれた、病弱の少年が、凶悪犯罪を理性のない心のまま犯し、その報いとしての処刑が決まり、寂しい日日に児童図画を見ることによって心を童心に還らせたい、もう一度幼児の心に還りたいと願い、旧師の吉田好道先生に図画を送って下さる様にお願いしました。その返書と一緒に絢子夫人の短歌三首が同封されてあり私の作歌の道しるべとなってくれました。
 短歌を詠み続けて七年になりました。初めて私の作品をとりあげてくれ批評をしてくれたのが前坂和子君です。三田高校在学中の事で三年生の文化祭に一冊の小冊子として、出品してくれました。その名を「いあいしゅう」と付してあり、この歌集に「遺愛集」として生かしたのです。これは前坂君への感謝の心と私の作歌を愛(を)しむ心とを合せたものです。
 夜の更けるまで教育課長さんと語りあっても話がつきない思いです。僕は生かされて得た心でしみじみと思うことは、人の暖かさに素直になって知ったいのちの尊さです。厚意の多くに甘え切って裸になって得たよろこびの愛(いと)おしい日日のあったことがとてもうれしいと思います。
 前坂君(註)の花の差入れは処刑の前夜もありました。花好きの僕は最後までよい花に接し得たことをよろこびます。遺品(かたみ)にと賜ひし赤きほうずきをわれと思いて撒と分ちぬ。母が持って来てくれた真赤なほうずきを、父、母、小川久兵衛牧師、泉田精一教誨師、前坂和子君、所長にも、僕の代りのように育てて欲しいと云って五つずつ分けました。
 歌集もたくさんの方々に読まれることでしょう。これは本当は生きている内に掌にするものと思っていた歌集なのですが、処刑は急に来るもので、本来の通り死後出版となります。この歌集の歌の一首でも心に沁むものがあれば僕はうれしいです。
昭和四十二年十一月一日夜(註・処刑前夜)
島秋人

(註)前坂君とは、前坂和子氏のこと。高校生のときに、島の短歌に感動し、花の差入れと文通を最後まで続けた。島処刑の翌年1968年、『書簡集 空と祈り−「遺愛集」島秋人との出会い』(私家版)を出版した。(1997年に東京美術より再刊されている。)

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