抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章3(2)
J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。
第2章 社会の機能としての教育
3、教育的なものとしての社会的環境
(37-38頁)
この「環境からの無意識的な影響」は、性格や精神のあらゆる組織に作用するほど精妙で滲透力のあるものであるが、その効果が最も顕著に現われる方面を二、三指摘するのは意義のあることであろう。第一に、言語の習慣である。言葉の基本的様式や、語彙の大部分は、きちんと決まった教授の方法としてではなく、社会的に必要なこととして営まれる日常の生活の交わりの中で形成されるのである。われわれはうまい言い方をするものだが、赤ん坊は、母語mother tongueを獲得する。このようにして身についた言葉の習慣は、意識的な教授によって矯正されたり、また排除されることさえあるけれども、それでも興奮したときには、意図的に獲得された言葉の様式はしばしば剝落して、人々は自分たちの本当のお国訛りに逆戻りするのである。第二は、行儀作法である。周知のように、お手本は訓戒にまさる。よい行儀作法は、いわゆるよい育ちから生ずる。いやむしろ、よい育ちそのものである。そして、育ちは、知識を伝えることによってではなく、平素の刺激に対する反応としての、平素の行動によって獲得される。意識的な矯正や教授が際限なく行なわれているにもかかわらず、結局は、周囲の雰囲気や気風が行儀作法を形成する主要な力なのである。そして、行儀作法は小さな道徳にすぎない。しかも、大きな道徳においていも、意識的な教授は、子どもの社会的環境を構成する人々の一般的な「平素の言行」と調和する程度においてだけその有効性を期待しうるにすぎないのである。第三に、よい趣味と美的鑑賞眼である。優美な形態や色彩をもつ調和のとれた対象につねに接していれば、趣味の基準は自然に向上する。貧弱で無味乾燥な環境は美への欲求を餓死させてしまうが、それと全く同様に、安ぴかで乱雑でけばけばしい環境の影響は趣味を脱落させる。そのような大敵に対して、意識的な教授がなしうることは、せいぜいのところ、他人が考えていることについての受け売りの知識を伝えることくらいのものである。そのような趣味は、自発的な、しかもその当人自身に深く染み込んだものとは決してならないのであって、尊敬するように教えられてきた偉い人々がどんなことを考えているかを思い出させる不自然な記憶にとどまるのである。そして、さらに深い価値判断の基準も人が平素入り込む情況によって作られるのであるが、このことは、改めて第四点をあげることにはならないのであって、むしろすでに述べた諸点を混ぜ合わせたものを指摘するだけのことである。何に価値があり、何に価値がないかについて意識的な評価が、どれほど多く、全く意識されていない基準によっているかに、われわれは滅多に気がつかない。だが、一般に、われわれが、調査したり熟慮しないで、無論のことと思っている事柄こそ、われわれの意識的な思考を限定し、結論を決定するものなのだ、と言えるのである。しかも、熟慮の水準の下にあるこれらの習性こそが、他の人々との絶え間ない関係のやりとりの中で形成されてきたものにほかならないのである。