2025年1月18日 (土)

きざしつはる〜『徒然草』第155段。

『徒然草』第155段より。

春暮てのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋はすなわち寒くなり、十月は小春の天気、草の青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まず落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下にまうけたるゆゑに、待ちとるついで甚だ速し。

2025年1月 7日 (火)

“教師の専門性/専門職としての教師”を考える〜「人間は変えることができるか」上田薫。

「人間は変えることができるか」

上田薫著『人間のための教育』国土社、1975年、96〜102頁より。

 

部分と全体と

  • 教育が人間を変えることができるかということは、じつは人間が人間を変えることができるかという問題なのである。(96頁)

 

  • くり返して言おう。教師は一応のところ人間を変えるための条件を他のだれよりも具備しているということができる。しかしそれは、部分の変化をひきおこす力をもつからではない。部分と全体を調和させ全体の統一をはかるにふさわしい位置と力とをそなえているということのためなのである。
  • プロの教師は人間を変えることができるとわたくしは思う。じじつ変えることができなければ教育したかいはない。しかしその変化はいま言ったようにつねに全体的なものだ。社会科の時間に生じた変化は算数や美術の時間にもなんらかの影響を与えるということが、ほんとうの変化だ。そこまで深くその人間につきささることがないような変化は、浅い部分的変化、ほんとうに人間の血肉となることのない変化だ。教師が浅い変化に満足しているかぎり、かれには子どもを変える力はないといってよいのである。(99頁)

変えようとする側の変革

  • 人間が人間を変えることなど思いもよらぬという考えかたがある。その考えによれば、「教師も子どもの成長を助けるだけだ、子ども自身が自分を変えつつ伸びていく」ということになるでろう。しかしわたくしは、教師は子どもを変えることができると言った。ではこの二つの主張は正面衝突するものなのであろうか。(99頁)
  • そこでもう一度わたくしの考えを検討してもらいたいと思う。人間が人間を変えるには、相手の全体的統一に正対しなければならぬ。ということは、変えようとする人間もまた自分の全体をそこに突き出さざるをえないということなのである。(99〜100頁)

 

  • しかし小なりといえども一個の人間全体であるとすれば、片手では扱えないのである。いや、自分を裸にして全力投球せねばならぬのである。それでなくては生きた人間を変化させることはできぬ。ということは、相手を自分の注文どおり変えることなどということは、とうていなしうるところではないということである。(100頁)

 

  • だから正確にいうならば、教師みもじつは子どもを変えることができるのではなく、影響を与えることができるというだけなのである。………部分的表面的世界のこと、たとえば漢字を機械的におぼえさせるということでは、教師は大威張りしている。しかしある詩を鑑賞させ理解させるということになれば、ひとりひとりの子の個性的な態勢が問題となってきて、正しいありかたは種々にわかれてしまうのである。そして教師はひとりひとりについて首をふりつつ暫定的な把握をメモして次の指導の手がかりにしなければならぬ。このとき教師は大いに働き、深い影響を子どもに与えるであろう。けれどもただ一つの正解を手中にして、それをふり回し、子どもたちをおびやすような愚はしないのである。人間が生きていく世界では、正解はいくつもあるというのが真実である。(100〜101頁)
  • くどいようだが、教師が知識や技術を切り売りすることによって相手に変化を与えることはできない。相手を変えるためには、こちらも全力を傾けねばならぬ。そのとき子どもであろうと相手は対等の人間だ。その対決を通じて、教師もまた新しい人間を発見する。自分の人間理解、社会理解を深める。言いかえれば自分自身を変化させる。人を変えるかぎはそこにあるのだと、わたくしは思う。
  • 教師の自己変革こそ子どもを変える力をもっている。「教師はただ手助けをすることができるだけだ」という主張の正しさは、このように言い換えてこそ迫力をもつのである。
  • 子どもの奥深い全体的変化を読み取ることは、教師を変化成長させる。そのためには、教師がよろいかぶとに身をかためて守ろうとしていてはだめだ。自分を裸にして変革にさらさなくてはだめだ。そういう姿勢が柔軟性を生む。常識には反するようだが、人間を変えることができる力をもつ人は柔軟性にとんでいるのである。(101頁)

 

  • 人は人を変えることができるが、それは思うようにではない。だから相手を思うようにすることを変えることだと考えるかぎり、人間は変えられるものではないのである。働きかける者と働きかけられる者との合体において、はじめてそこに生きた変化が生まれる。その変化において両者ともに変わるのである。
  • 多くの教師がこのことに無自覚なまま指導にとりくんでいるとすれば、それはじつにおそろしいことだ。そこには人間が稀薄にしか存在していない。
  • 今日、教育のための努力が、ほとんど人間のいない方向にむかってなされているということのやるせなさを、わたくしはしみじみと感じさせられているのである。(102頁)

2024年7月21日 (日)

学校土壌論(3)〜東井義雄2

「上農は土をつくる」 東井義雄

『東井義雄詩集』探究社、平成元年、241−242ページ

 

お百姓さんから教えてもらったことばがあります

下農は雑草をつくり

中農は作物をつくり

上農は土をつくる

ということばです

あなたの仕事を省みて「なるほど」と思いませんか

 

「作文」だけがんばっていても「作文」が育つものではありません

「理解」だけがんばっていても「理解」が育つものではありません

「勉強」「勉強」と「勉強」攻めにしていても「勉強」は育ちません

 

自転車のタイヤを直接ささえているおんは三センチの道はばであっても

はばが三センチの道を自転車で走ることは不可能です

直接はたらいているように見えないところも

間接に大切なはたらきをしているのです

 

だからこそ

「上農」は「土」をつくるです

どうか どうか

子どもの生活全体を

豊かな たくましいものに

育ててやってください

「遊び」でしか育て得ないものをも奪ってしまうことを自戒しましょう

「家庭」でしか育て得ないものまでも「学校」が奪ってしまうことを警戒しましょう

 

教育の「土」をつくる教師を目指しましょう。

 

2024年7月 3日 (水)

学校土壌論(2)〜内山興正

学校土壌論〜禅僧・内山興正の言葉。

  • 内山興正(1912–1998年)

Amazon 著者についてより)明治45年、東京に生まれる。早稲田大学西洋哲学科を卒業、さらに2年間同大学院に在籍後、宮崎公教神学校教師となる。昭和16年、澤木興道老師について出家得度。以来坐禅修行一筋に生き、昭和40年、澤木老師遷化の後は、安泰寺堂頭として10年間弟子の育成と坐禅の普及に努める。平成10年3月13日、示寂。

はじめに申し上げたように、私は子供を持っていません。しかしその代わりに大勢の弟子がおります。沢木老師がおられたあいだは、私は修行にのみ打ち込んでいればよかったのですが、老師が亡くなられて安泰寺の跡を継ぎ、弟子たちがふえるに従って、私は頭を切り換えました。もはや修行者ではなく、同時に教育者であらねばならないと覚悟をあらたにしたのです。

そこで、どういう教育方針でのぞむか考えたのですが、弟子を作物にたとえては申しわけないが、私は、安泰寺という畑で、弟子たちという作物をつくる気になった。それまで長年畑作りをやってきたので、こう考えると分かりやすいのです。事実、畑こそは生命をほんとうに育てるところです。畑作りは、生命にボタンを押す、スイッチをひねるといった機械的なことでできるわけがない。

では、安泰寺という畑で、弟子という作物を育てるにあたって、一番大切な太陽に相当するものはなにかといえば、それは坐禅です。

いきなり「坐禅」を持ち出すと皆さんはとまどうかもしれませんが、実は坐禅こそがいまほど申し上げた「スミレにはスミレの花が咲く」ということのもっとも端的な「行」であるからです。つまり坐禅とは、かいつまんでいえば、おのおのの各人の生命が生命すること、生命を純粋に発現すること、あるいは生命が生命を祈る姿といってもいい。

もともと私は弟子たちを教育するにあたって、その根本目標を弟子たちのすべてが筋金入りの坐禅人になることにおいています。筋金入りの坐禅になるには、当然坐禅人に打ち込まなければならない。それというのも坐禅こそが坐禅を行ずる各人に「スミレにはスミレの花が咲く。バラにはバラの花が咲く」という生命力を与えるものだからです。

では安泰寺にとって、太陽についで、大地にあたるものはなにかといえば、それは安泰寺という道場の雰囲気です。

大地は、深くこまやかにたがやされ、空気の流通をよくしておかねばならない。カチカチに固まった土で、一般社会から孤立した閉鎖的なものでは、人間は偏狭になり、狂信的になり、ヒステリックになる。他の社会からの空気が柔らかな土のなかに自由に入りこんでくればこそ、肥料分も醸成され、それを吸収する食欲も消化力もわきおこってくる。

私が及ぼずながら本を書いたり、求められれば講演に出かけたりするのも、多分にそのためを思ってのことです。それでいささかでも安泰寺の存在が世間に知られ、心ある人たちが訪ねてくるようになる。すると訪れてくる人たちが新しい空気を安泰寺に送りこんでくる。そこによって弟子たちは世間の問題を知り、世間の問題に関連して坐禅の意味をさらに深く認識してゆくに違いない。

(略)

だいたい教育というものは「ああしろ」「こうしろ」「これはいけない」と外から規制すべきものではありません。それはさきほどのナスの木にむかって「実がなれ」と命ずるようなもので、そうではなく、なによりも大切なのは自己自身の生命に食欲がおこることです。その食欲がおこるために肝要なものは、環境であり、雰囲気であり、地盤である。いいかえれば空気の通りのいいい、よくたがやされた、かつ程度の高い、安泰寺という大地です。

 

次に作物が育つために不可欠なものは水です。

水は根を潤おし、柔軟にし、吸収力をよくする。同時に肥料分を溶かして、水という形で根が吸いあげやすいようにする。

では安泰寺という畑における水とは何かといえば、それは托鉢や作務、つまり実際にからだを動かして働く生活です。

幸いにしてわれわれの寺は全く無収入なので、われわれが食べる分は托鉢して集めてこなけれならない。托鉢といえば町を歩いてお金をただもらってくるのだから、さぞ楽だろうと思われるかもしれないが、決してそうではありません。若い者といえばネコもしゃくしもカッコいい姿で町を歩きたがるいまどき、墨染の法衣を着て、網代笠をかぶり、草鞋脚絆といういでたちで町を歩くのだから、まずそれだけでも楽ではない。なかには酔狂は通行人もいて、そんな姿で托鉢しているわれわれを罵ったり、からんだりする。私の弟子たちはそれを乗りこえて、すべての人々からお金をもらい、そのお金で修行生活を営むのですから、生活そのものに実が入ってこざるを得ない。

また作務というのは、畑を作ったり、薪を割って運んだり、寺の建物を修繕したりする日常の仕事です。

安泰寺には文明の利器といえば電灯だけで、ガスもなければ水道もない。近ごろは弟子もふえたし、参禅会や接心にくる人たちも大勢になったので、先日新しい井戸を一つ掘りましたが、これも修行者たちの力だけでやった仕事です。また二階建ての古家を一軒もらったので、解体して本堂の裏に物置として建てなおしましたが、これも皆が協力してやった仕事です。坐禅修行も、こうした実際のからだを動かす仕事を通じてはじめて身につくものなのです。

(略)

最後に、作物にとって大切なものは肥料ですが、安泰寺の場合は、これは当然私が弟子たちに仏法の話をすることでなければなりません。その肥料はなるべく濃いものをたっぷり与えたいのが人情ですが、これはよくない。畑作りでも濃い肥料を沢山やると根が焼けて、一番大切な吸収力がなくなる。肥料というものは生命の吸収力に応ずるために、薄く、適当な量でなければならない。その点今日の学校教育の詰め込み主義や、いわゆる教育ママのやりかたは、子供の勉強意欲、吸収力、消化力を失わせるものです。

そこで私は弟子たちにはなるべく口を挿まないよう、仏法の話も、なにより自分自身が求道心を起こすことが大切なので、弟子たちが自ら積極的にやる気を起こすようにというねらいで話すことにしています。

これを要するに、私の弟子たちへの姿勢は「見守り、見張らず」ということに尽きます。一般の学校の先生やお母さん方のやりかたは、どうもこの逆のように見受けられる。子供たちを見守るという心ではなく、まるで子供たちはいつでも悪いことばかりしたがっていると決めこんででもいるように「また悪さをするんじゃないか、いうことを聞かんのじゃないか」と見張っている。「あれをしてはダメ、これをしてはいかん」と口やかましく小言ばかりいう。一番かんじな子供の生命そのものがすくすく伸びるのを見守るという心を忘れているように見えるのでえすが、どうですか。

これではいけないのです。

最初にきびしいことを申し上げましたが、今日の親たちがわが子を生命として見ていないというのはそこです。その心には、祈りがない。生命を拝み、生命を祈るという気持ちが全く欠けている。無生命の社会の部品として、わが子をはめこむことばかり考えているといわざるを得ない。

いわずにおられないと申し上げたのは、ここです。

もう一度申し上げます。子供は、この世に送りだされた、新しい生命です。どこまでもこの生命を、拝み、祈るという心に目ざめていただきたいと思います。

学校土壌論(1)〜東井義雄

学校土壌論〜東井義雄の言葉3つ。

○下農は雑草を作り 中農は作物を作り 上農は土を作る

○根を養えば、樹はおのずから育つ。根の深さとひろがりが、樹の高さと広がりになる。

○見ないところがほんものにならないと、見えるところもほんものにならない。

«「日記をつける注意(一)」斎藤喜博。