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2021年5月

2021年5月30日 (日)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章3(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

3、教育的なものとしての社会的環境

(続き)

(37-38頁)

この「環境からの無意識的な影響」は、性格や精神のあらゆる組織に作用するほど精妙で滲透力のあるものであるが、その効果が最も顕著に現われる方面を二、三指摘するのは意義のあることであろう。第一に、言語の習慣である。言葉の基本的様式や、語彙の大部分は、きちんと決まった教授の方法としてではなく、社会的に必要なこととして営まれる日常の生活の交わりの中で形成されるのである。われわれはうまい言い方をするものだが、赤ん坊は、語mother tongueを獲得する。このようにして身についた言葉の習慣は、意識的な教授によって矯正されたり、また排除されることさえあるけれども、それでも興奮したときには、意図的に獲得された言葉の様式はしばしば剝落して、人々は自分たちの本当のお国訛りに逆戻りするのである。第二は、行儀作法である。周知のように、お手本は訓戒にまさる。よい行儀作法は、いわゆるよい育ちから生ずる。いやむしろ、よい育ちそのものである。そして、育ちは、知識を伝えることによってではなく、平素の刺激に対する反応としての、平素の行動によって獲得される。意識的な矯正や教授が際限なく行なわれているにもかかわらず、結局は、周囲の雰囲気や気風が行儀作法を形成する主要な力なのである。そして、行儀作法は小さな道徳にすぎない。しかも、大きな道徳においていも、意識的な教授は、子どもの社会的環境を構成する人々の一般的な「平素の言行」と調和する程度においてだけその有効性を期待しうるにすぎないのである。第三に、よい趣味と美的鑑賞眼である。優美な形態や色彩をもつ調和のとれた対象につねに接していれば、趣味の基準は自然に向上する。貧弱で無味乾燥な環境は美への欲求を餓死させてしまうが、それと全く同様に、安ぴかで乱雑でけばけばしい環境の影響は趣味を脱落させる。そのような大敵に対して、意識的な教授がなしうることは、せいぜいのところ、他人が考えていることについての受け売りの知識を伝えることくらいのものである。そのような趣味は、自発的な、しかもその当人自身に深く染み込んだものとは決してならないのであって、尊敬するように教えられてきた偉い人々がどんなことを考えているかを思い出させる不自然な記憶にとどまるのである。そして、さらに深い価値判断の基準も人が平素入り込む情況によって作られるのであるが、このことは、改めて第四点をあげることにはならないのであって、むしろすでに述べた諸点を混ぜ合わせたものを指摘するだけのことである。何に価値があり、何に価値がないかについて意識的な評価が、どれほど多く、全く意識されていない基準によっているかに、われわれは滅多に気がつかない。だが、一般に、われわれが、調査したり熟慮しないで、無論のことと思っている事柄こそ、われわれの意識的な思考を限定し、結論を決定するものなのだ、と言えるのである。しかも、熟慮の水準の下にあるこれらの習性こそが、他の人々との絶え間ない関係のやりとりの中で形成されてきたものにほかならないのである。

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章3(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

3、教育的なものとしての社会的環境

(35-37頁)

われわれの考察の正味の成果は、これまでのところ、次のことである。すなわち、社会的環境は、一定の衝動を呼び醒まし、強化し、また一定の目的をもち、一定の結果を伴う活動に、人々を従事させることによって、彼らの中に知的および情動的な行動の諸傾向を形成する、ということである。音楽家の家庭で育つ子どもは、彼が音楽に関してもっている素質はどれもみな不可避的に刺激されるだろう。しかも、相対的には、それらは、別の環境で目醒ませられたかもしれない他の衝動よりも強く刺激されるだろう。音楽に興味をもち、しかも音楽に関して一定の能力を獲得するのでなければ、彼は「仲間外れ」になり、自分が所属する集団の生活に加わることができない。人間にとって、自分に関係のある人々の生活に何らかの形で参加することは不可避のことである。そういう参加という点から言えば、社会的環境は、無意識的に、そしてはっきりと決められた目的のどれども無関係に、教育的すなわち形成的な影響を与えるのである。

未開人や野蛮人の社会では、そのような社会生活への直接的参加(これまでに論じてきた間接的ないし付随的教育はそれによって成り立っているのである)の与える影響が、子どもたちを育てて、その集団の慣行や信念を身につけさせて行くための、ほとんど唯一の作用である。今日の社会においても、学校教育を最も強く受けた若者でさえも、その基礎的養育を、そのような直接的参加から受けるのである。その集団がもつ関心や業務に応じて、ある種の事物は大いに尊重される対象になり、他の事物は反感の対象になる。共同生活は愛情や嫌悪の衝動を創り出しはしないが、それらが結びつく対象を与える。われわれの集団または仲間が事をなす行動様式は、注意を向けるにふさわしい対象を決定し、したがってまた、観察や記憶の方向や限界を規定する傾向がある。見慣れないものとか、異質なもの(すなわち、その集団の活動の範囲を越える外的なもの)は、道徳的に禁止され、知的には疑わしいものとされがちである。たとえば、われわれが非常によく知っていることが昔は見落とされていたということがありえたとは、われわれにとってほどんど信じられないことのように思われる。われわれは、昔の人々は生来愚鈍であったとし、われわれの側には生まれつきの優れた知能があるとすることによって、そのことを説明しがちである。けれども、それを説明する理由は、彼らの生活様式がそういう事実に対して注意を喚起しないで、他の事柄に彼らの精神を集中させていた、ということなのである。感覚が刺激されるために感じうる対象が必要であるのとちょうど同じように、われわれの観察、回想、想像の能力は独りでに働くわけではないのであって、広く一般に行なわれている社会の諸業務によって起こされた要求によって発動させられるのである。性向の素地は、学校教育とは無関係に、そのような影響下で形成された諸能力を解放して、もっと十分に働くようにしてやること、それが能力から粗雑さをいくらか除去してやること、いろいろな対象を与えて、それによって、それらの活動が意味をより多く産み出すことができるようにしてやることである。

(続く)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(4)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(続き)

(34-35頁)

共同の仕事において使用された他の諸事物との関連によって音声が意味を獲得した後には、それらの音声は、それらが表わす諸事物が結びつけられるのと全く同じように、それらとよく似た他の音声と関連して用いられ、新たな意味を展開することができる。だから、子どもが、たとえば、ギリシャ人の兜について学ぶ際に使う言葉は、最初は、共通の関心と目的をもつ行動の中で用いられることによって、ある意味を獲得した(つまり理解された)のであった。そして、それらの言葉は、聞いたり読んだりする者を刺激して、兜が用いられるような活動を想像の上で試演させることによって、新たな意味を呼び起こすのである。「ギリシャ人の兜」という語を理解する人は、当分の間、心の中で、その兜を用いた人々の仲間になるのである。彼は、自分の想像力によって、ある共有された活動に従事するのである。言葉の完全な意味を学びつくすことは容易なことではない。おそらく、大部分の人は、「兜」とはギリシャ人と呼ばれる人々がかつて着用した奇妙な種類の被り物をさすという考えにとどまるだろう。そこで、われわれは、次のように結論するのである。すなわち、観念を伝え、獲得するために言語を用いるということも、事物は、共有された経験すなわち共同の活動において用いられることによって、意味を獲得するという原理の拡張であり、洗練なのであって、いかなる意味においても、それは決してその原理に矛盾するものではない、と。明白な事実としてか、想像においてか、そのいずれかで、言葉が共有された情況の中へ要素として入り込まないときには、それは純物理的な刺激として作用するにすぎないのであって、意味すなわち知的価値をもつものとしては作用しないのである。それは、活動がある特定の溝の中を進むようにさせはするが、しかしそこにはそれに伴う意識的な目的ないし意味は少しもないのである。だから、たとえば、プラス記号は、ある数字の下に別の数を書いて、それらの数を加算するという動作を行なわせる刺激となるかもしれないけれど、その動作を行なっている人間が、もし自分の行なうことの意味を自覚したいならば、彼は、自動機械とほとんど同じように働くにすぎないことになるだろう。

2021年5月27日 (木)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(3)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(続き)

(32-34頁)

言語の多くのことについての学習の主な道具となる傾向があるから、それがどんな風に働くかを調べることにしよう。赤ん坊は、もちろん、まず意味のない、すなわちいかなる観念も表さない単なる音響、雑音、音調から始める。音は直接的な反応を引き起こす刺激の一種にすぎない。あるものは宥めるような効果をもち、他のものは人を跳び上がらせるような傾向があるなど。ボウシという音声は、いく人かの人が参加する行動に関連して発せられるのでなければ、チョクトー族の言葉の音声、つまりうわべは音節のはっきりしない唸り声、と同じように無意味なものにとどまるだろう。母親が乳児を戸外へ連れて出ようとしているときに、彼女はその子の頭に何かを被せながら「ボウシ」と言う。外に連れて行ってもらうことがその子どもの関心事になる。母親と子どもは、ただ物理的にお互いに連れ立って外に出るだけでなく、両者は共に外に出ることに関心をもっている。つまり、その音声は、それが入り込む活動の記号となるのである。言語は相互に理解可能な音声から成り立っているという単なる事実は、それだけで、その意味が共有された経験との関連によって決まることを証明するに足るのである。

要するに、ボウシという音声は、「帽子」という物が意味をもつようになるのと全く同じ仕方で意味をもつようになる、つまり、一定のやり方で用いられることによって意味をもつようになるのである。そして、それらが成人に対してもつのと同じ意味を子どもに対してももつようになるのは、成人と子どもの両方が共通の経験の中でそれらを用いるからである。同じ用い方がなされる保証は、その物とその音声が、子どもと大人の間に能動的な関係をうち立てる手段として、ある共同の活動の中で最初に使用されるという事実にある。類似した観念ないし意味が生ずるのは、両方の人間が、それぞれ一方の行なうことが他方の行なうことに依存し、しかも影響を与えるような行動に、共同者として従事するからである。もしも二人の未開人が共同して獲物を追いかけているとして、ある合図がそれを発する者にとっては「右へ行け」を意味し、それを聞く者にとっては「左へ行け」を意味するとしたら、明らかに、彼らは狩猟を一緒にうまくやって行くことができないだろう。相互に理解しあうということは、音声をも含めて、諸事物が、共同の作業を営むことに関して、両者にとって同様の価値をもつ、ということを意味するのである。

(続く)

2021年5月18日 (火)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(続き)

(30-32頁)

ところで、多くの場合−−あまりにも多くの場合−−、人間の未成熟者の活動も、有益な習慣を形成するために、ただうまうまと利用されるにすぎない。彼は、人間らしく教育されるというより、むしろ動物のように訓練されているのである。彼の本能は、依然として、それが最初からもっていた苦痛とか快楽という目的に結びつけられたままである。けれども、幸福を手に入れたり、失敗の苦痛を回避したりするために、彼は他の人々の意に適うやり方で行為しなければならないのである。だがそうでない場合には、彼は、本当に、共同活動に関与すなわち参加するのである。その場合には、彼の本来的な衝動は修正される。彼は単に他の人々の行動に調和するやり方で行動するだけでなく、そのように行動しているうちに、他の人々を活動させるのと同じ観念や情緒が彼の中に生ずるのである。ある部族が、たとえば、好戦的であるとしよう。その部族が努力して達成しようとする成功や、尊重する業績は、戦闘や勝利に関するものである。こういう生活環境が存在することは、少年を刺激して、最初は遊戯において、やがて少年が十分に強く逞しくなったときには実戦の場において、好戦的態度を発揮させるのである。闘えば、それだけ彼は世に認められ、出世することになるが、尻込みすれば、それだけ嫌われ、嘲られ、好意的処遇を拒まれる。彼が最保からもっている好戦的な傾向や情動が他のものを犠牲にして強化させることや、彼の考えが戦争に関係する事物に向かうことは、少しも意外なことではないのである。このようにして、はじめて、彼はその集団の公認の成員に立派になりきることができるのである。このようにして、彼の心的習性は、しだいにその集団のものに同化されて行くのである。

右の実例の中に含まれている原理をとり出して明確にすれば、社会的生活環境は、一定の願望や観念を直接植えつけはしないし、また、打撃に対して「本能的に」瞬きしたり身をかわしたりするような、ある種の全く筋肉的な行動習慣を確立することにとどまりもしない、ということに気づくだろう。一定の見たり触れたりすることのできる具体的な行動様式を刺激するような情況を設定することが、最初の段階である。そして、個人をその共同活動の参加者すなわち仲間にして、彼がその成功を自分の成功と感じ、その失敗を自分の失敗と感ずるようにすることが、その完成段階なのである。その集団の情動的態度が彼に乗り移るやいなや、彼は、その集団が目ざしている独特の目的や、成功をもたらすために使われる手段を機敏に認知することができるようになるだろう。言い換えれば、彼の信念や観念は、その集団の他の人々のものと同様のものとなるだろう。そしてさらに、彼は他の人々とほとんど同じくらいの知識の貯えを獲得するだろう。なぜなら、その知識は彼がいつもやっていることの構成要素だからである。

知識を獲得する過程で言語が重要な働きをすることが、知識は人から人へ直接的に伝えることができる、という俗説の主な原因となっていることは確かである。ある観念を他人の心に伝えるには、その人の耳に音声を伝えさえすれば、それでよいかのように思われてるほどである。そのため、知識を伝えることは、純物理的な過程と同じものとされてしまうのである。けれども、言語からの学習過程は、分析すれば、先ほど述べた原理を裏付けるものであることがわかるだろう。おそらく、次のことは、ほとんど躊躇することなく、容認されるだろう。すなわち、子どもが、たとえば、帽子の観念を獲得するのは、それを他の人々がするのと同じように用いることによってなのだ、つまり、それを頭に被ったり、それを被るために他の人に手渡したり、外にでるときにそれを他の人から被せてもらったりすること等々によってなのだ、ということである。だが、物語や読書によって、たとえば、ギリシャ人の兜の観念を獲得する過程に、この共有された活動という原理は、いったいどんな風に当てはまるのか、と問われるかもしれない。というのは、その過程には、直接それを用いるというようなことは全然入り込まないからである。また、アメリカ大陸の発見について書物から学ぶ過程に、いったいどんな共有された活動があるのだろうか。

(続く)

2021年5月17日 (月)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(27-30頁)

他者と共同して活動している生物は社会的環境をもっている。彼が何を行なうか、そして何を行なうことができるかは、他者の期待や要求や賛成や非難によって決まる。他者と関連づけられているものは、他者の活動を勘定に入れることなしに、自分自身の活動を遂行することはできない。というのは、それら他者の活動は、彼自身の行動傾向を実現するために不可欠の条件だからである。彼が動くとき彼は他者を動かし、そして彼もまた他者に動かされるのである。ある個人の活動をその人だけの孤立した行動によって説明することができると考えるのは、全く自分ひとりで、買ったり売ったりしながら商売している実業家を創造してみるようなものである。そしてまた、工場主が自分自身の会計室で密かに計画を立てているときにも、原料を購入したり製品を販売したりしているときと同じように、彼の活動は確かに社会的に導かれているのである。他者と共同して行われる行動に関係のある思考や感情は、極めて明白な協力的ないし敵対的な行為と同じくらい、社会的な行動様式なのである。

特にはっきりと指摘しておかなければならないことは、いかにして社会的生活環境がその未成熟な成員を養育するかということである。社会的生活環境がいかにして外面的な行動の習慣を形作るかということを知るには大した困難はない。犬や馬でさえ、その行動は、人間との共同生活によって改変される。犬や馬がいろいろな習慣を形成するのは、それらが行なうことに人間が関心をもっているからである。人間は、動物に影響を与える自然の刺激を統制することによって、言い換えれば、一定の環境を創り出すことによって、動物を制御する。餌、轡と手綱、音、車が、馬の自然な、つまり本能的な反応の生じ方を方向づけるために利用される。一定の動作を呼び起こすように間断なく働きかけることによって、本能的興奮と同様の画一性をもって機能する習慣が形成される。ねずみを迷路の中に入れて、一定の順序で一定の回数を曲ったときにだけ、餌にありつけるようにしておけば、そのねずみの活動は次第に改変されて、空腹のときにはいつも、他の経路よりむしろその経路をとるまでになる。

人間の行動も同じようなやり方で改変される。火傷をした子どもは火を恐れる。もしも親が、子どもがある玩具に触るといつも火傷をするように条件を整えておくならば、彼は火に触るのを避けるのと同じように自動的にその玩具をさけることを学習するだろう。しかしながら、これまでのところ、われわれは、教育的な教授とは区別して訓練と呼びうるものについて考察しているにすぎない。いま考察している変化は、行動の知的および情緒的な性向の変化というより、むしろ外面的行動の変化なのである。といっても、その区別は鮮明なものではない。ことによると、どの子どもはやがてその特定の玩具に対してだけでなく、それに似た玩具全体に対して激しい反感をもつようになるかもしれない。その嫌悪は、最初の火傷のことを忘れてしまった後でもなお持続するかもしれない。さらに後になって、彼は、どうも理屈のに合わないように思われる自分のその反感を説明するために何か理屈を考え出したりするかもしれない。環境を変えて行動への刺激に変化を与えることによって、外面的な行動の習慣が改変され、そのことが、ある場合には、さらにその行動に関係する心的傾向をも改変することになるだろう。けれども、こういうことは、つねに起こるとは限らない。たとえば、おそいかかってくる打撃から身をかわすように訓練された人は、対応する思考とか情動とかを少しも伴わずに、自動的にひらりと身をかわすのである。そこで、訓練を教育から区別する差異を何か見出さなければならないことになるのである。

手がかりは次の事実の中に見出されるだろう。すなわち、馬は自分の行動が社会的に利用される過程に本当に参加しているのではない、ということである。他の何者かが、自分に有利な結果を獲得するために、その行動の遂行がその馬にとって有利になるようにすること−−餌を得ることなど−−によって、馬を利用するのである。しかし、馬は、多分、何か新たな興味をもつことにはならないだろう。馬は以前として餌に興味をもったままであって、自分が行なっている奉仕には興味をもたない。彼は共同の活動の仲間ではないのである。もしも彼が共同者となるのだとすれば、彼は、その連帯の活動に従事しているときに、その活動の完成について、他の者たちと同様の興味をもっているはずである。彼は、他の者たちがもっている観念や情緒を共有するはずなのである。

(続く)

2021年5月15日 (土)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章1(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

1、環境の本質と意味

(続き)

(26-27頁)

この問題に対する答えは、一般的な定式で言えば、一定の反応を呼び起こす際の環境からも作用によるということになる。要求されている信念をたたき込むことはできないし、必要とされている態度をはりつけることもできない。しかし、人は、自分が生存している特定の生活環境に導かれて、選択的にある特定のものを見たり感じたりするようになるし、他の人々と一緒にうまくやって行けるように一定の流儀を心得るようになる。また、その生活環境は、他の人々の賛同を得るための条件として、ある信念を強化し、他の信念を弱める。このようにして、その生活環境は、その人の中に、次第に一定の行動体系や一定の行動傾向をつくり出すのである。「環境」environmentとか「生活環境」mediumという語は、個体をとりまく周囲の事物より以上のものを意味する。それらの語は、周囲の事物がその人独自の活動的傾向に対してもつ特定の連続関係を意味するのである。もちろん、無生物もその周囲の事物と連続している。しかし、比喩的に言うほかは、それをとりまく事情は環境とはならない。というのは、無生物は自己に影響を及ぼす力に関与しないからである。ところが他方、生物、とりわけ人間の場合には、彼から空間的にも時間的にも遠く離れている事物が、彼の身近にある事物よりも、より確実に彼の環境を成すことがあるのである。人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ、その人の本当の環境なのである。たとえば、天文学者の活動は、彼が注視したり、それについて計算したりする星とともに変わる。彼を直接とりまいている事物のなかでは、彼の望遠鏡がもっとも密接な彼の環境である。また、好古家の、古物研究家としての、環境は、彼が関心をもっている遠い昔の時代の人間の生活や、彼がその時代と関係をつけるために用いる遺物や碑文などから成り立っているのである。

要するに、環境は、ある生物に特有の活動を助長したり、妨害したり、刺激したり、抑制したりする諸条件から成り立っているのである。水が魚の環境であるのでは、それが魚の活動----つまり魚の生活----に必要だからである。北極探検家が北極に到達することに成功しようとしまいと、北極が彼の環境の重要な要素であるのは、それが彼の活動を限定し、彼の活動を他のものとは異なった独特のものにするからである。生活は、単なる受動的生存(そういうものがあると仮定してのことだが)にすぎぬものではなく、行動の仕方を意味するのであるからこそ、環境または生活環境とは、この活動の中に、それを維持したり、挫折させたりする条件として、入り込むものを意味するのである。

2021年5月 8日 (土)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章1(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

(25-26頁)

1、環境の本質と意味

われわれがこれまでに明らかにしてきたのは、今日共同社会(コミュニティ)すなわち社会集団が、絶え間ない自己更新を通して自己を維持するということ、そして、この自己更新は、その集団の未成熟な成員が教育を通して成長することによって、行なわれるということであった。無意図的あるいは計画的なさまざまな作用によって、社会は、まだその仲間入りをさせられていない、外見的にはよそ者のようにみえる人間を、その社会自身の資産や理想の健全な担い手につくり変えるのである。それゆえ、教育は、はぐくみfostering、やしないnurturing、つちかいcultivatingの過程である。これらの語はみな、教育が成長の諸条件に対する配慮という意味を含むことを示している。また、われわれは、養成するrearing、育成するraising、育て上げるbringing upなどとも言う−−これらの語は、教育が引き上げることを目指している水準の高さを表わす。語源的には、教育educationという語は、まさしく、導き、あるいは育て上げるleading or bringing up過程を意味するのである。われわれは、この過程の結果のことを考えているときには、活動を躾けshaping、形成しforming、陶冶するmoldingこと−−すなわち社会的活動の標準的形式へと仕付けること−−として、教育について語るのである。そこで、本章では、社会集団がその未成熟な成員をそれ独自の社会的形式へと育て上げて行く方式の一般的な特徴について考察することにしよう。

必要とされているのは、その集団社会に広く行きわたっている関心や目的や観念を共有するに至るまで、経験の質を変えて行くことなのだから、問題は、明らかに、単なる物理的形成の問題ではない。物は空間の中を物理的に運ぶことができる。すなわち、そっくりそのまま運搬できるだろう。けれども、信念や願望は、物理的に引き出したり、はめ込んだりすることはできない。では、それらはどのようにして伝えられるのだろうか。直接的な伝播とか文字通りの注入が不可能だとすれば、問題は、幼い者たちが年をとった者たちの見方を同化したり、年長の者たちが幼い者たちを自分たちと同じ心をもつものにして行く方法を見出すことである。

(続く)

2021年5月 7日 (金)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章 要約

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

(23-24頁)

要約

生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己更新の過程である。教育と社会的生命との関係は、栄養摂取や生殖と生理的生命との関係に等しい。この教育は、まず第一に通信(コミュニケーション)による伝達にある。通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程である。通信はその過程に参加する双方の当事者の性向を修正する。人間の共同生活のあらゆる様式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献することにあるのだが、そのことがもっとも容易に認められるのは未成熟者を扱う場合である。すなわち、あらゆる社会制度は事実上教育的であるけれども、その教育的効果は、まず年長者と年少者の共同生活との関連において、共同生活の目的の重要な部分となるのである。社会がいっそう複雑な構造や資産をもつようになるにしたがって、制度的(フォーマル)なつまり意図的な教授や学習の必要性が増大する。制度的な教授や訓練の範囲が拡大するにつれて、直接的な共同生活において獲得される経験と学校において獲得されるものとの間の好ましからざる裂け目が産み出される危険が生ずる。この危険は、この2、3世紀の間における知識および技術の専門的な様式の急速な進歩のゆえに、今日、これまでになく大きなものとなっているのである。

(第1章、ここまで)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章3(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

3、制度的(フォーマル)な教育の位置

(続き)

(21-23頁)

そのような制度的な教育なしには、複雑な社会の資産や業務のすべてを伝達することは不可能である。さらにまた、書物や知識の記号が修得されるのであるから、そのような制度的(フォーマル)な教育は、子どもたちが、もしも他の人々との非制度的(インフォーマル)な共同生活において偶然的に訓練を受けるという状態に放置されていたならば、近づくことのできないような種類の経験をうる道をひらくわけである。

しかし、間接的な教育から制度的(フォーマル)な教育への移行には顕著な危険が伴う。直接的にであろうと、あるいは遊戯によって代理的にであろうと、実際的な仕事に参加することは、少なくとも本人自身が行なう生き生きした行動である。このような特質は、そういうことをやる機会が狭い範囲に限られているという弱点をある程度償う。反対に、制度的(フォーマル)な教授は現実ばなれした生気のない−−ありふれた軽蔑的意味の言葉で言えば、抽象的で書物的な−−ものとなりやすい。低級な社会に蓄積されているかぎりでの知識はどれも少なくとも実践にうつされ、すっかり身についたものになっており、それがさし迫った日々の関心事へはいってくる場合に付着している深い意味を伴って存在しているのである。

しかし進歩した文化においては、学習されなければならないものの多くは記号によって貯えられている。それはおよそ通常の行動や事物に翻訳することができるようなものではない。そのような教材はどちらかといえば専門的で表面的である。現実性についての通常の基準を尺度とすれば、それは人工的である。というのは、この尺度は実際的な関心事とのつながりということにあるからである。そのような教材は、思考や表現の通常の慣習の中に同化されないで、それだけで一つの独立した世界の中に存在しているのである。制度的(フォーマル)な教授の教材には、それが生活経験の主題からは切り離されて、単に学校での主題にすぎなくなってしまう、という危険が常につきまとう。持続的な社会的関心事が視野から見失われてしまうことになりやすい。社会生活の構造の中へもちこまれていないで、主として記号で表わされた専門的知識の状態にとどまっている教材が、学校において目立ったものとなるのである。このようにして、われわれは教育というものの通俗的な概念に達する。すなわち、それは、教育の社会的必要性を無視し、意識生活に影響を及ぼす人間のあらゆる共同生活と教育とが同一であるということを無視して、現実ばなれした事柄についての知識を知らせることと教育とを同一視し、言語記号を通して学問を伝えること、つまり読み書き能力の修得と教育とを同一視することになるのである。

それゆえ、教育哲学がとりくまなければならない最も重要な問題の一つは、教育のあり方の、非制度的(インフォーマル)なものと制度的(フォーマル)なものとの間の、付随的なものと意図的なものとの間の、正しい均衡を保持する方法である。知識や専門的な知的熟練を獲得することが社会的性向の形成に影響を及ぼさない場合には、普通の生き生きとした経験の意味が深められず、他方、それだけ学校教育は、学問の「くろうと」−−すなわち自分本位の専門家−−をつくり出すにすぎないのである。人々が、学習という特殊な仕事によって学んだことを知っているために、自覚的に知っている事柄と、他人との相互交渉を通して自分たちの性格を形成する過程で吸収したものであるために、無自覚的に知っている事柄との間の分裂を回避することは、特殊な学校教育が発達するごとに ますますむつかしい仕事になって行くのである。

(一章本文、ここまで)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章3(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

3、制度的(フォーマル)な教育の位置

(19-21頁)

したがって、あらゆる人が、ただ生存し続けるだけでなく真に生活する限り、他の人々とともに生活することから受ける教育と、計画的に子どもを教育するすることとの間には、著しい差異がある。前の場合には、教育は付随的である。それは自然で重要なものではあるが、しかし共同生活のとりたてて言うほどの理由ではない。経済的、家庭的、政治的、法律的、宗教的などの、あらゆる社会制度の価値は、それらが経験を拡大し改良する効果によって測られると言っても誇張にはならないと思われるが、それでも、この効果はその制度の本来の動機の一部ではないのであって、その本来の動機は狭く限られており、もっと直接的で実際的である。たとえば宗教的結社は世界を支配している諸力の恩恵を得、邪悪な力を防ぎたいという願いから生まれたのであり、家族生活は欲求を満たし家族の永続を確保するために生まれたのであり、組織的労働はたいていの場合他者への隷属のために生じたのである、等々。制度の副産物、つまりその制度が意識生活の質の範囲とに及ぼす効果は、ただ徐々に注目されるようになったにすぎない。そしてこの効果が制度運営の指導的要因と考えられるようになったのは、さらにいっそうゆっくりとであった。今日においてさえ、われわれの産業上の生活においては、勤勉とか倹約という一定の価値を別にすれば、世の中の仕事を営んで行くために人間が結成する共同生活の諸形態が知的および情緒的な面でどんな反作用を及ぼしているかは、その物質的産物とくらべて、少ししか注目されていないのである。

しかし、直接人間に関わる事実としての、共同生活という事実そのものは、子どもを扱う場合には、重要さを増すのである。子どもたちとの接触において、子どもたちの性向に及ぼすわれわれの行動の効果を無視したり、そのような教育的効果をなんらかの外的な明白な結果よりも軽視したりすることはたやすいとはいえ、そのことは成人に対する場合ほど容易ではない。訓練の必要があまりにも明白なのである。つまり、子どもたりの態度や習慣にある変化を与えなければならないという必要が非常にさしせまったものであるため、これらの結果を全く考慮しないでいることはできないのである。子どもたちに対するわれわれの主な務めは彼らを共同生活に参加できるようにしてやることなのである。われわれは、そうすることができるようになる能力を彼らが形成しつつあるかどうかを考えざるをえないのである。あらゆる制度の究極的な価値が、それの特に人間的な効果−−それが意識的経験に及ぼす効果−−にあるということを、人類はいくらかはっきりと理解するようになっているが、この教訓は主として子どもたちとの交渉を通じて学びとられたのだと考えてさしつかえないだろう。

以上のようなわけで、われわれは、これまで考察してきた広い意味での教育課程の中に、さらに制度的(フォーマル)な種類の教育−−直接的な教授や学校教育−−を区別するようになる。未発達の社会集団には、制度的(フォーマル)な教授や訓練はほんのわずかしか認められない。未開な集団では、主としてその集団に対する大人たちの忠誠を保持するための共同生活と同じ種類の共同生活によって、必要な性向を子どもたちに教え込む。未開な集団には、若者を社会の完全な成員に仲間入りさせるための成人式に関連するもののほかには、教授のための特殊な機関も教材も制度も存在しない。たいていの場合、未開の集団は、子どもたちが、年長者の行なっていることに参加することによって、大人たちの慣習を学びとり、大人たちの情緒的態度や観念の蓄積を習得することをあてにしているのである。幾分かは、この参加は直接的である。大人たちの仕事に参加し、そうして見習い期間を過すのである。また幾分かは、その参加は間接的である。子どもたちが大人たちの行動を模倣し、そうすることによって大人たちの行動がどのようなものであるかを知るようになる模倣的な遊びを通じて行なわれるのである。未開人にとっては、人が学ために専ら学習だけが行なわれているような場所を捜し出すことは、途方もなく愚かしいことと思われたであろう。

しかし文明が進歩するにつれて、子どもたちの能力と大人たちの仕事の間のギャップは拡大する。大人たちの仕事に直接参加することによる学習は、あまり進歩していない仕事の場合のほかは、ますますむずかしくなる。大人たちがすることの多くは、距離的にも意味的にも次第に縁遠いものとなり、そのため遊戯としての模倣は次第にその真意を再現するのにますます不適当なものとなって行く。こうして大人の活動に有効に参加する能力は、この目的を目ざして前もって与えられる訓練に依存することになるのである。意図的な期間−−つまり学校−−およびはっきりきまった教材−−つまり学科−−が案出される。そして、一定のことを教えるという仕事が、特別な人々の集団に委任されるのである。

(続く)

2021年5月 5日 (水)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章2(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

2、教育と通信(コミュニケーション)

(続き)

(17-19頁)

社会生活が通信(コミュニケーション)と同じことを意味するばかりではなく、あらゆる通信(したがって、あらゆる真正の社会生活)は教育的である。通信を受けることは、拡大され変化させられた経験を得ることである。人は他者が考えたり感じたりしたことを共に考えたり感じたりする。そしてその限りにおいて、多かれ少なかれ、その人自身の態度は修正される。そして通信を送る側の人もまたもとのままではいはしない。ある経験を他人に十分にそして正確に伝えるという実験をしてみると、とりわけその経験がいくぶん複雑な場合には、自分の経験に対する自分自身の態度が変化しているのに気づくだろう。さもなければ無意味な言葉を使ったり叫び声をあげたりすることになる。経験を伝えるためにはそれは系統だててきちんと述べられなければならない。経験をきちんと述べるには、その経験の外に出、他人がそれを見るようにその経験を見、その経験が他人の生活とどんな点で接触するかを考察して、他人がその経験の意味を感得できるような形にしておくことが必要である。平凡な文句や標語に関する場合のほかは、人は自分の経験を他人に理知的に語ってきかせるためには想像力によって他人の経験をいくらか自分のものにしなければならない。通信はみな芸術に似している。それゆえ、いかなる社会制度も、それが真に社会的である限り、つまり真に共有されている限り、それに関与する人々にとって、教育的であるといってよいだろう。それは、型にはまって、きまりきった仕方で行なわれるときにだけ、その教育力を失うのである。

それゆえ、結局のところ、社会の生命はその存続のために教えたり学んだりすることを必要とするばかりでなく、共に生活するという過程そのものが教育を行なうのである。その過程によって、経験が拡大され、啓発さえれる、想像力が刺激され、豊かにされる。言明や思想を正確にし、生き生きしたものとする、という責任が生ずるのである。ほんとうにひとりぼっちで(肉体的にだけでなく精神的にもひとりぼっちで)生活している人は、自分の過去の経験の正味の意味を引き出すためにその経験をふりかえって考える機会をほとんど、いやむしろ全くもたないであろう。成熟者と未成熟者との間の後天的能力の差異があるために子どもを教えることが必要になるばかりでなく、この教えるということの必要が、経験を加工して、それを最も伝えやすく、したがって最も利用しやすくするような秩序や形式へと整えることに、計り知れないほど大きな刺激を与えるのである。

 

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第1章2(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第1章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育

(15-17頁)

2、教育と通信(コミュニケーション)

社会が存続し続けるために教授と学習が必要なことは、まったく、あまりにも明白なことなので、われわれは当り前のことを不当に長々と論じているようにみえるかもしれない。けれども、そような強調によって、教育というものを不当に学校教育的な制度的(フォーマル)なものとしてとらえる考えを避けることができるという点で。そのような強調は正当である。実際、学校は未成熟者の性向を形成するところの伝達(トランスミッション)の一つの重要な方法である。がしかし、それは単に一つの手段にすぎず、他のいろいろな働きとくらべれば、わりに表面的な手段なのである。教授のより基本的かつ持続的な様式の必要性が理解されているときに、はじめてわれわれは間違いなく学校教育的方法を正しい背景の中に位置づけることができるのである。

社会は伝達(トランスミッション)によって、通信(コミニュケーション)によって存在し続けるばかりでなく、伝達の中に通信の中に存在するといってよいだろう。共通common、共同体community、通信Communicationという語の間には単なる言語上の関連以上のものがある。人々は、自分たちが共通にもっているもののおかげで、共同体の中で生活する。また通信とは、人々がものを共通に所有するにいたる方途なのである。人々が共同体つまり社会を形成するために共通にもっていなければならないものは、目標、信仰、抱負、知識−−共通理解−−社会学者が言うように同じ心をもつことlike-mindednessである。そのようなものは、煉瓦のように、ある人から他の人へ物理的に手渡すことはできないし、人々がパイを物理的な断片に分割することによってそれを分けあうように、分けあうことはできない。共通理解に参加することを確実にする通信は、同じような情緒的および知的な性向−−期待や要空に対して反応する同じような様式−−を確保するものなのである。

人々は、ただ物理的に接近して生活することだけでは、社会を形成しはしない。そのことは、人が他人から何フィートか、何マイルか遠ざかることによって社会的に影響を受けなくなるわけではないのと同様である。本や手紙は、同じ屋根の下に住んでいる人々の間の結びつきよりも、より親密な結びつきをお互いに何千マイルも離れている人間たちの間にうち立てることがある。また、人々がみな共通の目的のために働いているからといって、彼らが社会集団を構成するわけではない。機械の諸部分は共通の結果をめざして最大限の協力をしながら働くけれども、それらの諸部分は共同体を形成しはしないのである。しかしながら、それらがすべてその共通の目的を知っており、それに関心をもっており、そのためそれらがその共通の目的を考慮しながら自分たちの特定の活動を調節するならば、それらは共同体を形成することになる。だが、このことは通信を必要とするのである。各自は、他のものが何をしているかを知らなければならないだろうし、また、何らかの方法によって自分の目的や自分のしていることに関して他人に知らせておくことができなければならないだろう。合意は通信を必要とするのである。

以上のようなわけで、われわれは、最も社会的な集団の中にさえまだ社会的とはいえない多くの関係が存在するということを認めざるをえない。いかなる社会集団においても非常に多くの人間関係がいまなお機械の場所と同じような段階にある。人々は自分が欲する結果を得るために互いに他を利用しあうが、そのとき自分が利用する人々の情緒的および知的性向や同意を顧慮しはしない。そのような利用は、肉体的優越、または地位や熟練や技術的能力の優越、および機械的ないし財政上の道具の支配をものがたっている。親と子、教師と生徒、雇用者と被雇用者、治者と被治者の関係がこのような水準にとどまっている限り、彼らのそれぞれの活動が相互にどんなに密接に接触しようとも、彼らは真の社会集団を形成しはしないにである。命令を下したり受けたりすることは行動や結果に変化を及ぼすけれども、そのことはひとりでに目的の共有(シェアリング)や関心の共有(コミュニケーション)をもたらしはしないのである。

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