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2021年7月

2021年7月29日 (木)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章 要約

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

要約

連続し発展して行く社会の生命にとって必要な態度や性向を子どもたちの内部に発達させることは、信念や情緒や知識の直接的な伝達によってなしうることではない。それは環境という媒介物を通してなされるのである。環境は、ある一個の生物に特有な活動の実行の関わりをもつ諸条件の総和から成る。また、社会的環境とは、その成員の中のある一人の活動の営みに堅く結びつけられている仲間たちの活動全体から成る。それは、ある個人が何らかの連帯的活動に関与つまり参加する程度に応じて、真に教育的効果を発揮する。人は、共同活動における自分の役割を果たすことによって、その共同活動を駆り立てている目的を自分のものとして、その方法や対象を熟知するようになり、必要な技術を獲得し、その情緒的気風に浸るようになるのである。

子どもたちが、だんだんといろいろな集団に属して行き、それらの集団の活動を分担するようになるにつれて、意識的にそうしようとしないでも、いっそう深くいっそう根本的な教育的成功形成がなされるようになる。しかしながら、社会がいっそう複雑になるにつれて、未成熟者の能力の養成に特に気をつけるような特別の社会的環境を設置することの必要性が明らかになる。この特別な環境の比較的に重要な三つの機能を列挙すれば、それによって発達させることが望まれている性向の諸要素を単純化し、順序づけること、現存する社会的慣習を純化し、理想化すること、子どもたちを放任しておいたら、おそらくその影響を受けるであろうような環境よりも、いっそう広く、いっそうよく均衡のとれた環境を創り出すことである。

2021年7月28日 (水)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章4(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

4、特殊な環境としての学校

(続き)

(41-42頁)

第二に、現存する環境に含まれている価値のない諸特徴を、それらが心的習性に影響を及ぼすものの中に入り込まないように、そこから、できるだけ、取り除くことが、学校環境の任務である。それは鈍化された行動の環境を設立するのである。選択は、単純化を目ざすだけでなく、望ましくないものを除去することも目ざすのである。あらゆる社会は、つまらぬものや、過去から持ち越された厄介物や、さらに積極的に邪悪なものを背負い込まされる。学校は、自分が提供する環境からそのようなものを取り除き、そうすることによって、通常の社会的環境の中にあるそれらのものの影響を打ち消すために、自分にできることをする義務をもっているのである。専ら最良のものだけを使用するために最良のものを選び出すことによって、学校は、この最良のものの力を強化することに努める。社会は、いっそう開化して行くにつれて、現存する業績の全体を伝達し保存することではなくて、よりよい未来の社会に寄与するようなものだけを伝達し保存する責任がある、ということを悟るのである。学校は、この目的を達成するためにの社会の主要な機関なのである。

第三に、社会的環境の中のいろいろな要素に釣り合いをとらせ、また、各個人に、自分の生まれた社会集団の限界から脱出して、いっそう広い環境と活発に接触するようになる機会が得られるように配慮してやることが、学校環境の任務である。「社会ソサエティ」とか「共同体コミュニティ」というような語は5回をまねきやすい。というのは、それらの語は、その一語に対して一つの単一の事物が存在すると思われがちだからである。しかし実際には、一つの近代社会は、多少緩く結びつけられた多数の社会なのである。親族という直接的な延長をもつ各世帯は一つの社会を成し、村や街の遊び仲間も一つの共同体なのであり、社会集団やクラブもそれぞれまた別の共同体である。これらの比較的親密な集団を越えて、わが国のような国の中にには、いろいろな民族や、宗教的結合や、経済的区分が存在する。近代都市の内部には、名目上の政治的まとまりがあるとはいえ、おそらく、かつての時代に大陸全土に存在したよりも、多くの共同体が存在し、多くの区々に相違する慣習や、伝統や、抱負や、統治あるいは支配の諸形態が存在する。

そのような集団は、それぞれに、その成員の活動的性向に対して形成的な影響を及ぼす。教会や労働組合や商売仲間や政党などと同じように、徒党もクラブも一味もフェイザン(子どものすりやどろぼうを手先に使う老悪漢、Dickensの小説Oliver Twistの中の人物)の泥棒一家も刑務所の囚人たちも、確かに、それらの集団的ないし連帯的な活動に加わる者たちに対して教育的な環境を提供するのである。それらはどれも、家族や町や国家と同じくらいに、共同生活つまり共同体生活の一様式なのである。また、芸術家の組織とか、文壇とか、地球上に散らばっている専門的な学会の成員のような、その成員同士がお互いに直接的な接触を僅かしかもたなかったり、あるいは全くもたないような、そういう共同体も存在するのである。というわけは、彼らは目的を共有しており、しかも各成員の活動は、他の成員が行っていることについての知識によって直接限定されるからである。

昔は、集団の相違は、主として地理上の問題であった。多くの社会が存在したが、それぞれは、その地域の内では、比較的に均質であった。しかし、商業、運輸、相互通信、移住の発展とともに、この合衆国のような国々は、いといとな伝統的慣習をもついろいろな集団の結合で構成されたものとなるのである。このような事態こそ、おそらく他のいかなる理由にもまして、子どもたちに、均質的で、しかも均衡のとれた環境というようなものを与えてやるようにな教育施設を必要不可欠なものとした最大の理由なのである。ただこのような方法によってのみ、同一の政治的単位内のさまざまの集団の並存が引き起こす遠心的な力を打ち消すことができるのである。いろいろな民族の、さまざまの宗教をもち、異なった慣習をもった若者たちを学校で混ぜ合わせることによって すべてのもののための、新しい、しかもいっそう広い環境が創り出される。共通の教材が与えられることによって、すべてのものが、孤立状態におかれた集団の成員のもちうる視野よりもいっそう広大な視野に立って統一的な見地に慣れて行くのである。アメリカの公立学校の同化力は、共通で均衡のとれた感化力の有効性を物語る雄弁な証拠である。

さらにまた学校は、一人ひとりの人間について、彼が入り込むいろいろな社会的環境が及ぼす種々雑多な影響を彼の性向の中に調整統合してやるという機能をもっている。家庭の中ではある掟が幅を利かせており、街では別の掟が、工場や商店ではまた別の掟が、宗教的結社ではさらに別の掟が幅を利かせている。人は、ある環境から別の環境へ移るとき、お互い相反する力で引っぱられ、そして、引き裂かれて、異なった判断や情緒の基準をもつ人間になる危険にさらされている。この危険があるゆえに、安定化と統合の任務が学校に課せられるのである。

(第2章本文、ここまで)

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