« 学校土壌論(3)〜東井義雄2 | トップページ | きざしつはる〜『徒然草』第155段。 »

2025年1月 7日 (火)

“教師の専門性/専門職としての教師”を考える〜「人間は変えることができるか」上田薫。

「人間は変えることができるか」

上田薫著『人間のための教育』国土社、1975年、96〜102頁より。

 

部分と全体と

  • 教育が人間を変えることができるかということは、じつは人間が人間を変えることができるかという問題なのである。(96頁)

 

  • くり返して言おう。教師は一応のところ人間を変えるための条件を他のだれよりも具備しているということができる。しかしそれは、部分の変化をひきおこす力をもつからではない。部分と全体を調和させ全体の統一をはかるにふさわしい位置と力とをそなえているということのためなのである。
  • プロの教師は人間を変えることができるとわたくしは思う。じじつ変えることができなければ教育したかいはない。しかしその変化はいま言ったようにつねに全体的なものだ。社会科の時間に生じた変化は算数や美術の時間にもなんらかの影響を与えるということが、ほんとうの変化だ。そこまで深くその人間につきささることがないような変化は、浅い部分的変化、ほんとうに人間の血肉となることのない変化だ。教師が浅い変化に満足しているかぎり、かれには子どもを変える力はないといってよいのである。(99頁)

変えようとする側の変革

  • 人間が人間を変えることなど思いもよらぬという考えかたがある。その考えによれば、「教師も子どもの成長を助けるだけだ、子ども自身が自分を変えつつ伸びていく」ということになるでろう。しかしわたくしは、教師は子どもを変えることができると言った。ではこの二つの主張は正面衝突するものなのであろうか。(99頁)
  • そこでもう一度わたくしの考えを検討してもらいたいと思う。人間が人間を変えるには、相手の全体的統一に正対しなければならぬ。ということは、変えようとする人間もまた自分の全体をそこに突き出さざるをえないということなのである。(99〜100頁)

 

  • しかし小なりといえども一個の人間全体であるとすれば、片手では扱えないのである。いや、自分を裸にして全力投球せねばならぬのである。それでなくては生きた人間を変化させることはできぬ。ということは、相手を自分の注文どおり変えることなどということは、とうていなしうるところではないということである。(100頁)

 

  • だから正確にいうならば、教師みもじつは子どもを変えることができるのではなく、影響を与えることができるというだけなのである。………部分的表面的世界のこと、たとえば漢字を機械的におぼえさせるということでは、教師は大威張りしている。しかしある詩を鑑賞させ理解させるということになれば、ひとりひとりの子の個性的な態勢が問題となってきて、正しいありかたは種々にわかれてしまうのである。そして教師はひとりひとりについて首をふりつつ暫定的な把握をメモして次の指導の手がかりにしなければならぬ。このとき教師は大いに働き、深い影響を子どもに与えるであろう。けれどもただ一つの正解を手中にして、それをふり回し、子どもたちをおびやすような愚はしないのである。人間が生きていく世界では、正解はいくつもあるというのが真実である。(100〜101頁)
  • くどいようだが、教師が知識や技術を切り売りすることによって相手に変化を与えることはできない。相手を変えるためには、こちらも全力を傾けねばならぬ。そのとき子どもであろうと相手は対等の人間だ。その対決を通じて、教師もまた新しい人間を発見する。自分の人間理解、社会理解を深める。言いかえれば自分自身を変化させる。人を変えるかぎはそこにあるのだと、わたくしは思う。
  • 教師の自己変革こそ子どもを変える力をもっている。「教師はただ手助けをすることができるだけだ」という主張の正しさは、このように言い換えてこそ迫力をもつのである。
  • 子どもの奥深い全体的変化を読み取ることは、教師を変化成長させる。そのためには、教師がよろいかぶとに身をかためて守ろうとしていてはだめだ。自分を裸にして変革にさらさなくてはだめだ。そういう姿勢が柔軟性を生む。常識には反するようだが、人間を変えることができる力をもつ人は柔軟性にとんでいるのである。(101頁)

 

  • 人は人を変えることができるが、それは思うようにではない。だから相手を思うようにすることを変えることだと考えるかぎり、人間は変えられるものではないのである。働きかける者と働きかけられる者との合体において、はじめてそこに生きた変化が生まれる。その変化において両者ともに変わるのである。
  • 多くの教師がこのことに無自覚なまま指導にとりくんでいるとすれば、それはじつにおそろしいことだ。そこには人間が稀薄にしか存在していない。
  • 今日、教育のための努力が、ほとんど人間のいない方向にむかってなされているということのやるせなさを、わたくしはしみじみと感じさせられているのである。(102頁)

« 学校土壌論(3)〜東井義雄2 | トップページ | きざしつはる〜『徒然草』第155段。 »