コーチング

2025年1月 7日 (火)

“教師の専門性/専門職としての教師”を考える〜「人間は変えることができるか」上田薫。

「人間は変えることができるか」

上田薫著『人間のための教育』国土社、1975年、96〜102頁より。

 

部分と全体と

  • 教育が人間を変えることができるかということは、じつは人間が人間を変えることができるかという問題なのである。(96頁)

 

  • くり返して言おう。教師は一応のところ人間を変えるための条件を他のだれよりも具備しているということができる。しかしそれは、部分の変化をひきおこす力をもつからではない。部分と全体を調和させ全体の統一をはかるにふさわしい位置と力とをそなえているということのためなのである。
  • プロの教師は人間を変えることができるとわたくしは思う。じじつ変えることができなければ教育したかいはない。しかしその変化はいま言ったようにつねに全体的なものだ。社会科の時間に生じた変化は算数や美術の時間にもなんらかの影響を与えるということが、ほんとうの変化だ。そこまで深くその人間につきささることがないような変化は、浅い部分的変化、ほんとうに人間の血肉となることのない変化だ。教師が浅い変化に満足しているかぎり、かれには子どもを変える力はないといってよいのである。(99頁)

変えようとする側の変革

  • 人間が人間を変えることなど思いもよらぬという考えかたがある。その考えによれば、「教師も子どもの成長を助けるだけだ、子ども自身が自分を変えつつ伸びていく」ということになるでろう。しかしわたくしは、教師は子どもを変えることができると言った。ではこの二つの主張は正面衝突するものなのであろうか。(99頁)
  • そこでもう一度わたくしの考えを検討してもらいたいと思う。人間が人間を変えるには、相手の全体的統一に正対しなければならぬ。ということは、変えようとする人間もまた自分の全体をそこに突き出さざるをえないということなのである。(99〜100頁)

 

  • しかし小なりといえども一個の人間全体であるとすれば、片手では扱えないのである。いや、自分を裸にして全力投球せねばならぬのである。それでなくては生きた人間を変化させることはできぬ。ということは、相手を自分の注文どおり変えることなどということは、とうていなしうるところではないということである。(100頁)

 

  • だから正確にいうならば、教師みもじつは子どもを変えることができるのではなく、影響を与えることができるというだけなのである。………部分的表面的世界のこと、たとえば漢字を機械的におぼえさせるということでは、教師は大威張りしている。しかしある詩を鑑賞させ理解させるということになれば、ひとりひとりの子の個性的な態勢が問題となってきて、正しいありかたは種々にわかれてしまうのである。そして教師はひとりひとりについて首をふりつつ暫定的な把握をメモして次の指導の手がかりにしなければならぬ。このとき教師は大いに働き、深い影響を子どもに与えるであろう。けれどもただ一つの正解を手中にして、それをふり回し、子どもたちをおびやすような愚はしないのである。人間が生きていく世界では、正解はいくつもあるというのが真実である。(100〜101頁)
  • くどいようだが、教師が知識や技術を切り売りすることによって相手に変化を与えることはできない。相手を変えるためには、こちらも全力を傾けねばならぬ。そのとき子どもであろうと相手は対等の人間だ。その対決を通じて、教師もまた新しい人間を発見する。自分の人間理解、社会理解を深める。言いかえれば自分自身を変化させる。人を変えるかぎはそこにあるのだと、わたくしは思う。
  • 教師の自己変革こそ子どもを変える力をもっている。「教師はただ手助けをすることができるだけだ」という主張の正しさは、このように言い換えてこそ迫力をもつのである。
  • 子どもの奥深い全体的変化を読み取ることは、教師を変化成長させる。そのためには、教師がよろいかぶとに身をかためて守ろうとしていてはだめだ。自分を裸にして変革にさらさなくてはだめだ。そういう姿勢が柔軟性を生む。常識には反するようだが、人間を変えることができる力をもつ人は柔軟性にとんでいるのである。(101頁)

 

  • 人は人を変えることができるが、それは思うようにではない。だから相手を思うようにすることを変えることだと考えるかぎり、人間は変えられるものではないのである。働きかける者と働きかけられる者との合体において、はじめてそこに生きた変化が生まれる。その変化において両者ともに変わるのである。
  • 多くの教師がこのことに無自覚なまま指導にとりくんでいるとすれば、それはじつにおそろしいことだ。そこには人間が稀薄にしか存在していない。
  • 今日、教育のための努力が、ほとんど人間のいない方向にむかってなされているということのやるせなさを、わたくしはしみじみと感じさせられているのである。(102頁)

2015年4月16日 (木)

「アインシュタインと同じような創造性をもっている人というのは」。

デヴィット・ボーム『全体性と内蔵秩序』(61-62頁)。

東洋と西洋の断絶の形成以前に存在していたかもしれない全体性の状態に戻ることは、もちろん不可能である(とにかくこの状態について、われわれはほとんど何も知らない)。新たに学び直し、観察し直し、自分自身で全体性ということの意味を発見することが必要とされている。もちろん、西洋と東洋の過去の教訓をともに知っていなければならない。しかし、これらの教訓を模範や手本として盲従するだけでは、ほとんど意味がない。本章ですでに指摘したように断片化と全体性に対する洞察を新しく発展させるためには、科学上の基礎的な新発見や、偉大な独創的芸術作品の創造よりも、さらに困難な創造的活動を必要とする。こうした文脈において、アインシュタインと同じような独創性をもっている人というのは、アインシュタインの考えを模範とする人でもなければ、アインシュタインの考えを新しいやり方で応用する人でもない。創造性のある人とは、アインシュタインから学び、アインシュタインの研究の確かな部分を消化しながらも、独創性をもった質的に新しいやり方でアインシュタインの研究を乗り越えていくような人を言うのである。東洋においても西洋においても、過去の偉大な知恵を受け継ぎ、現在の生活状態に適した独創的な認識を新たに生み出さなければならない。


2014年5月21日 (水)

科学とは。

ジョン・デューイ『民主主義と教育(下)』岩波書店、2013、59-60頁。

科学とは、経験の中の認識的要素の結実のことである。それは、個人的あるいは習慣的な経験によい印象を与えるものを述べるだけに満足しないで、ある信念の根源や根拠や帰結を明らかにするような叙述を目ざすのである。この目標を達成すると、それらの叙述に論理的性格が与えられる。教育的には、科学的方法の論理的特徴は、知的に高度化された教材に属するものであるから、学習者の方法ーつまり経験の知的性質がより粗雑な段階からより洗練された段階へと進む過程の時間的秩序ーとは異なっている、ということに注目しなければならない。このことが無視されると、科学はただそれだけの単なる情報とみなされ、しかも、その情報は、非日常的な専門用語で述べられているので、通常の情報よりも面白くなく、縁遠いものになる。科学が教育過程の中で果たさなければならない機能は、それが人類のために果たしてきた機能である。すなわち、経験を局部的、一時的な事件から解放すること、そして、個人の習慣や好みという偶然によって曇らされない知的展望を開くことである。抽象作用、一般化、明確な公式化という論理の特性は、すべてこの機能に関連しているのである。ある観念を、それが生じた特定の背景から解放し、それに一そう広い関連を与えることによって、どの個人の経験の成果も、すべての人間が自由に使えるものとなるのである。このようにして、究極的には、そして哲学的にじは、科学は、全般的な社会進歩の道具となるのである。

2012年3月20日 (火)

熱中人。

先日,行きつけの美容院へ。

オーナーで美容師のIさんは,最近アレクサンダー・テクニークに関心を持っているらしい。髪を触ってもらいながら、アレクサンダー・テクニークって…となんだかんだと話をする。

最後の仕上げにかかろうかという頃に、Iさんから一言。

「で,Soyodaさんの最近熱中していることって何?」

「………,ないなぁ…」

その答えに、相手は意外だな〜という表情。自分自身でも,

へぇ~〜ないんだ…

とびっくり。ん〜と暫し自分のなかのおもちゃ箱をひっくり返して色々探してみるものの,ない。
美容院から戻ってからも探してみる…やっぱり,ない。
探し飽きて探すのをやめる。

まあ,そういう時期があってもいいじゃないか…。

何だか不調な今日この頃…。

20120320と思っていたのだけれど,あった,あった,ありました!
3週間前に購入したレッグトレーニング

テレビショッピングで似たマシンを何度も見ているうちに購買意欲アップ。
何となく楽しそうだし,面白そうだし…。で,今月初めに注文。

何日かやってみた感想は,

ダイエット効果は期待できんなぁ…。

という感じだったのだが,骨盤がしまるというか整う感じは,1分程度しただけでも体感できた。
すると,なんだかカラダは,

いい感じじゃ~ん?!

と喜んでいる様子。

そんなこんなで,続けること今日で3週間。
最近,何だか,おしりもいい具合になってきた。

このまま地道に続けると,どこまでいけるのだろう??
楽しみだなぁ…。しんどくないし…。
へへっ…。

と,地味〜にすっかりハマってるではないか…。
骨盤の整う感じとともに,自分のオプティミストな性質も体感。

多分,自分以外の他者は,こういう自分をいつも見ているんだろうなぁ。しかし,自分自身は,自分のなかのオプティミストな性質を忘れがちだ。

今日の出合いを大切にしよう…。

2012年3月 8日 (木)

伊那小学校公開研究会(2012)参会まとめ。

■(1)
「次の活動につながる大事な瞬間 その際(きわ)をふり返る まさにそのとき あとみよそわか」-たんなる教育活動ではなく本来の教育が実践されている,実物の姿に出合えた学校でした。

※開会式で,ある医師がマザー・テレサの“死を待つ人の家”を訪ねて言った言葉ー「ここには見るべき医療はないが,真の看護がある」を引いて,伊那小のめざすところを語られたのが,大変印象に残っている。

※◯×をつけるような,適応的なシングル・ループ学習の視座で伊那小の実践をみたとき,きっと「見るべき医療はなかった」と結論づけてしまうだろう。

※学びとは,迷悟一如だ。

▼(2)
「適応的なシングル・ループ学習の視座」で伊那小学校の実践をみると,表層の教師の技術や表層の子どもたちの言い方・やり方にしか目がいかないだろう。それはもったいない見方だ。教室に一歩入って驚かされたのは,能動的学習者として場に開いている子どもたちと教師がそこに居たこと。これは,観念や理屈としてではない。教室を覗いた途端,子どもたちの内で起こっている「動き(胎動)」がダイレクトに伝わってきて,授業の中身云々以前こちらまでドキドキ,ワクワクしてきたくらいだ。そういう土壌の「耕し」(“learning to be”)にこそ,私たちが学ぶべきことではないか。

▼(3)
4年生の総合活動の授業をみる。驚き!子どもたちのしている対話は,弁証法的対話だった。議題について賛成!反対!を出し合いながら自分たちが本当に話さなければならない本質が見えてくる,つまり,「正」・「反」の対話の中から,「合」に至るための主題が見出されて行くという1時間。こうした思考と対話のあり方が,1年生からの教育活動を通じて子どもたちのなかに“発生”してきている,というのは驚きと感動の何ものでもない。

▼(4)
伊那小の子どもたちの自立した姿の印象的なこと。個々が「自ら立つ」というのではなく,自と他の切れ目のないぶっ続きの地盤に「自ずと立つ」というあり方。

2011年12月 6日 (火)

まな板に乗る。

昨日から某県某市に出張中。

今朝は、いつもの宿泊先の無料の朝食が、ますます簡素になっていたので、最寄りのコメダでモーニング。

今回の出張も、学校経営の支援先である小学校・中学校の訪問。

「12月はいつ来る?」
と、手ぐすねひいて待って貰えているのは、嬉しい限り。

学校評価に関連した支援なのだけれど、私は評価表だけ改善する、という支援の方法はとらない。
色んな話、色んな投げ掛けをしながら、学校の教育観・経営観から学校経営計画学校評価表を浮き上がらせていく。
一見遠回りに見えるがこれが最短、実のある経営計画・評価表の作り方−世の中の様々な流行にふられず、その学校の追究している教育の価値から教育実践を立ち上げる。

今回、嬉しい出来事がもう一つ。

昨年、学校訪問に同行してくれていた同じ研究分野のK氏が、ある学校へ対して行なったコンサルテーションを事例として分析してくれたとのこと。

自分のコンサルテーションが他者の目にどう移るのか、どういう価値と課題があるのか、考察を期待したいところ。

6月の学会で完成した論文、ちょうだいね。

と抜き刷り、予約。

ということで、今日もこれから行ってきます。

2011年10月19日 (水)

なんだか,わくわくしてきた。

今日の研修は,コーチングの前提となる考え方やコーチングというコミュニケーションをしていく行為主体である自身のスタンスを問い考えるという主旨のコーチング講座。

140分一本勝負。

お題は,「組織マネジメントとコーチング」。
受講者から,深みのあるいいコメントが発せられる。
漠然と想定していた研修の展開はあっさりポイっして,受講者のコメントを生かして,流れを創り出すことに切り替える。

こちらの想定に固執して,こちらのして欲しい経験を受講者に求めると(こういうのを受講者を掌に乗せるという),つまらない研修になる。
そうじゃなくて,受講者の経験のなかに降りていってやろうとすると,必然的に即興性は高くなる。

即興性に価値があるのではなくて,受講者という学習主体を損なわないようにすること,学習の当事者で居てもらうことが第一義。

今日は,結果的に,学習のコアがはっきり浮き出てた,いい講座のカタチになったなぁ…。

すごい!

今日のこのカタチは,来月やる研修に生かせそうだなぁ…。

来月の研修は,これまでのベースを書き換えて,自分のバーを上げちゃった企画にしているので,ど~しようかと少々腰が重い。
でも,今日の収穫は,高くしたバーにチャレンジする助けになるかもしれない…。

新たなフェーズへの扉だ。

なんだか,わくわくしてきた。

2011年9月26日 (月)

田中泯 場踊りin神戸「摩耶山天上寺」。

昨日は,神戸は六甲の摩耶山天上寺に,田中泯さんの場踊りを観に行く。
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始まって間もなく,後ろのおばさまが,帰る,帰る,帰る…と帰るを連呼。
音楽もないし,解説もないし…と,つぶやく。
今から面白くなるのよ…と隣の人がフォローしていたが,しばし「帰る」を連呼したあと,結局そのおばさまは,「ありがとうございました」と言って,帰って行った。

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場踊り。

神戸六甲の摩耶山天上寺「で」踊るのではない。

神戸六甲の摩耶山天上寺「を」踊る。

摩耶山天上寺は,とても磁場というか,何か力の強いところだったようだ。
ここでの泯さんの踊り(肉体)は,そんな何かの力に,対決するような翻弄されるような絡めとられるよう降参するような…。

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45分の踊りが終わったのちのインタビュー。泯さんは言った。

 名前の付く踊りは三流だと思っている。
 呼び名も付かないものを踊り続ける。
 名前に居座って踊っているとウソになる。

帰りがけ,今週発売の泯さん初のエッセイ集『僕はずっと裸だった-前衛ダンサーの身体論』を購入。
その場で,泯さんがサインをしてくれた。
空かさず握手をお願い。
笑顔で手を差し出してくれた。

本を開くと,「名づけられない踊り」でありつづけたい,とあった。

本来は,誰も,何も名づけられない。

そこに立ち続ける。私自分もそこを目ざしているんだな…。

2011年8月 7日 (日)

「考える」を考える(2)。

夏の研修シーズン,2つと1/2が終了。

最近の研修ではケーススタディをよくやっている。どの研修でも,全然想定通りに進まない。そんな時は,予定していたプランをあっさり捨てて,受講者の皆さんから出てくることをメインに,その場でプランを組み立て直しながら,同時に進行−インプロヴィゼーション(即興)。

だからというわけでもないけれど,2つと1/2が終了した今週末は,結構お疲れモード。

お疲れモードのなかうっすら感じたこと,ひとつ。

言葉や思考は,身体の「表現」されたもの,というより,身体の「延長」なんだな…。

「言葉は身体の延長だ」と言っていたのは,俳優で劇作家で演出家で多摩美術大学教授で東京芸術劇場芸術監督にも就任している野田秀樹さん。この言葉を聞いたとき「なるほどなぁ~」と思ったけれど,今は「やっぱりそうなんだなぁ…」という感じ。たぶんね…というくらいの,あくまでも感じ。

そんな感じを味わってみると,今からの研修の企画を変えてみるアイデアが出て来た。

この「たぶんね…」の感じは,まだ些細だけれど,結構大きな気づきかも。今後の研修の方向性が結構変わりそう。

2011年1月20日 (木)

「考える」を考える。

Web_1「大学に入って,初めて“考える”ということをしました」。

これは,以前,大学の非常勤で情報表現関係の授業を担当していたとき,毎年学生からのコメントとして出てきていたこと。最近,「考える」ということを考えていて,あのときの学生のコメントを思い出し,つらつら考えてみる。

授業は主に大学2年生が受講していたけれど,彼らは私の授業に出合うまで,「考える」ということをしてこなかったのだろうか?知り合いの小・中・高校の先生にこの話をすると,へぇ〜…と不思議そうな顔をされたりして…。そりゃそうだ。人間生きていて,考えないってことはない。

その時の授業は,ウェブ上での情報デザインやパワーポイントを使ってのプレゼンテーションだったが,ウェブやパワーポイントの使い方だけをやっても面白くない(それはそれで,学生は集中して楽しく作業するのだが)。そこで,魚の骨やKJ法などを用いて図解しながら論理的思考や拡散的思考と収束的思考をトレーニングしていくことを学習の第一のねらいにしていた。そうしないと,ウェブの作り方やポワーポイントの使い方だけ習得しても,その先役にたたない。

こういうことはやったことがない学生がほとんど。皆,四苦八苦。でもそのうち,おもしろさに目覚める。いまから思うに,彼らにとっての初めてした「考える」とは,たぶん,自分自身で産み出すプロセス,自分自身で創り出すプロセスだったように思う。

「どうしたらいいですか?」とは,学期当初学生からよく出た質問。「正解はないんだよね」と応える。この応答は,学生にとってかなりのカルチャーショック。でも,程なく,学生も正解を求める質問をしても無駄で,自分でどう考えていくかを考えるという方向に切り替わっていく…。

そういう学生の経験にかかわれたあの授業は,講師であった私自身も非常に善い経験だった。

で,今。

学校教育を中心にコンサルテーションや職業人の研修をしたりするのだが,「自分自身で産み出すプロセス,自分自身で創り出すプロセス」を要求されるというのは,こちらが思う以上に苦痛らしい。「どうしたらいいですか?」「正解はないんだよね」…青天の霹靂。日常の教育活動のなかでこういう思考が要求されていないことはないはず,なのだけれど…。

経験を積めば積むほど,経験則が蓄積される。それをもとに次の行動や目の前の出来事を判断する。大事なことだけれど,落とし穴でもあるよね…(自分のハマった経験からいくと,ハマったこと自体にかなり無自覚だったりして)。経験則にあてはまらないことに出合ったとき,困る。無理矢理自分の経験則に当てはめるか,他人事として向き合わない,とか…。

もっと困るのは,「経験則=自分」だと思ってしまうこと。自分の経験に殊更固執する。そこには感情が伴う。感情が悪くなることは悪!自分の感情の優先順位は最上位。自分の経験則で自分の経験則が正しいと言えるものを切り出して自分を強化していく。

いずれにしても,そうなると「skilled incompetence(熟練した無能)」やいわゆる「学習障害」と言われる状態に…。

だから,学校組織や組織成員の行動を規定する“地図”を書き換えることが必要だ。と,私が研修やコンサルテーションする時は考えない。そういうやり方ではない人材育成や組織開発の方法を探究している。

「子どもたちのことばの獲得」について考える困難さの一つが,ここにある。私たちはことばを発見しつつある子どもたちについて,ことばをすでに発見してしまった視点からしか語れない。(佐々木正人「『ことばの獲得』を包囲していること」小林春美・佐々木正人編『新・子どもたちの言語獲得』,p264より)

これは,アフォーダンス理論の研究者・佐々木正人氏の言葉。

そもそも人は,自分自身で産み出す能力,創り出す能力を具えている。それがどういうことなのか,その能力を発揮するということがどういうことなのか,まずは,自分自身が自分自身の実践のなかで問い,言葉にしていく。困難だけれど代え難いほどおもしろい。