セルフマネジメント/リーダーシップ

2025年1月 7日 (火)

“教師の専門性/専門職としての教師”を考える〜「人間は変えることができるか」上田薫。

「人間は変えることができるか」

上田薫著『人間のための教育』国土社、1975年、96〜102頁より。

 

部分と全体と

  • 教育が人間を変えることができるかということは、じつは人間が人間を変えることができるかという問題なのである。(96頁)

 

  • くり返して言おう。教師は一応のところ人間を変えるための条件を他のだれよりも具備しているということができる。しかしそれは、部分の変化をひきおこす力をもつからではない。部分と全体を調和させ全体の統一をはかるにふさわしい位置と力とをそなえているということのためなのである。
  • プロの教師は人間を変えることができるとわたくしは思う。じじつ変えることができなければ教育したかいはない。しかしその変化はいま言ったようにつねに全体的なものだ。社会科の時間に生じた変化は算数や美術の時間にもなんらかの影響を与えるということが、ほんとうの変化だ。そこまで深くその人間につきささることがないような変化は、浅い部分的変化、ほんとうに人間の血肉となることのない変化だ。教師が浅い変化に満足しているかぎり、かれには子どもを変える力はないといってよいのである。(99頁)

変えようとする側の変革

  • 人間が人間を変えることなど思いもよらぬという考えかたがある。その考えによれば、「教師も子どもの成長を助けるだけだ、子ども自身が自分を変えつつ伸びていく」ということになるでろう。しかしわたくしは、教師は子どもを変えることができると言った。ではこの二つの主張は正面衝突するものなのであろうか。(99頁)
  • そこでもう一度わたくしの考えを検討してもらいたいと思う。人間が人間を変えるには、相手の全体的統一に正対しなければならぬ。ということは、変えようとする人間もまた自分の全体をそこに突き出さざるをえないということなのである。(99〜100頁)

 

  • しかし小なりといえども一個の人間全体であるとすれば、片手では扱えないのである。いや、自分を裸にして全力投球せねばならぬのである。それでなくては生きた人間を変化させることはできぬ。ということは、相手を自分の注文どおり変えることなどということは、とうていなしうるところではないということである。(100頁)

 

  • だから正確にいうならば、教師みもじつは子どもを変えることができるのではなく、影響を与えることができるというだけなのである。………部分的表面的世界のこと、たとえば漢字を機械的におぼえさせるということでは、教師は大威張りしている。しかしある詩を鑑賞させ理解させるということになれば、ひとりひとりの子の個性的な態勢が問題となってきて、正しいありかたは種々にわかれてしまうのである。そして教師はひとりひとりについて首をふりつつ暫定的な把握をメモして次の指導の手がかりにしなければならぬ。このとき教師は大いに働き、深い影響を子どもに与えるであろう。けれどもただ一つの正解を手中にして、それをふり回し、子どもたちをおびやすような愚はしないのである。人間が生きていく世界では、正解はいくつもあるというのが真実である。(100〜101頁)
  • くどいようだが、教師が知識や技術を切り売りすることによって相手に変化を与えることはできない。相手を変えるためには、こちらも全力を傾けねばならぬ。そのとき子どもであろうと相手は対等の人間だ。その対決を通じて、教師もまた新しい人間を発見する。自分の人間理解、社会理解を深める。言いかえれば自分自身を変化させる。人を変えるかぎはそこにあるのだと、わたくしは思う。
  • 教師の自己変革こそ子どもを変える力をもっている。「教師はただ手助けをすることができるだけだ」という主張の正しさは、このように言い換えてこそ迫力をもつのである。
  • 子どもの奥深い全体的変化を読み取ることは、教師を変化成長させる。そのためには、教師がよろいかぶとに身をかためて守ろうとしていてはだめだ。自分を裸にして変革にさらさなくてはだめだ。そういう姿勢が柔軟性を生む。常識には反するようだが、人間を変えることができる力をもつ人は柔軟性にとんでいるのである。(101頁)

 

  • 人は人を変えることができるが、それは思うようにではない。だから相手を思うようにすることを変えることだと考えるかぎり、人間は変えられるものではないのである。働きかける者と働きかけられる者との合体において、はじめてそこに生きた変化が生まれる。その変化において両者ともに変わるのである。
  • 多くの教師がこのことに無自覚なまま指導にとりくんでいるとすれば、それはじつにおそろしいことだ。そこには人間が稀薄にしか存在していない。
  • 今日、教育のための努力が、ほとんど人間のいない方向にむかってなされているということのやるせなさを、わたくしはしみじみと感じさせられているのである。(102頁)

2012年3月20日 (火)

熱中人。

先日,行きつけの美容院へ。

オーナーで美容師のIさんは,最近アレクサンダー・テクニークに関心を持っているらしい。髪を触ってもらいながら、アレクサンダー・テクニークって…となんだかんだと話をする。

最後の仕上げにかかろうかという頃に、Iさんから一言。

「で,Soyodaさんの最近熱中していることって何?」

「………,ないなぁ…」

その答えに、相手は意外だな〜という表情。自分自身でも,

へぇ~〜ないんだ…

とびっくり。ん〜と暫し自分のなかのおもちゃ箱をひっくり返して色々探してみるものの,ない。
美容院から戻ってからも探してみる…やっぱり,ない。
探し飽きて探すのをやめる。

まあ,そういう時期があってもいいじゃないか…。

何だか不調な今日この頃…。

20120320と思っていたのだけれど,あった,あった,ありました!
3週間前に購入したレッグトレーニング

テレビショッピングで似たマシンを何度も見ているうちに購買意欲アップ。
何となく楽しそうだし,面白そうだし…。で,今月初めに注文。

何日かやってみた感想は,

ダイエット効果は期待できんなぁ…。

という感じだったのだが,骨盤がしまるというか整う感じは,1分程度しただけでも体感できた。
すると,なんだかカラダは,

いい感じじゃ~ん?!

と喜んでいる様子。

そんなこんなで,続けること今日で3週間。
最近,何だか,おしりもいい具合になってきた。

このまま地道に続けると,どこまでいけるのだろう??
楽しみだなぁ…。しんどくないし…。
へへっ…。

と,地味〜にすっかりハマってるではないか…。
骨盤の整う感じとともに,自分のオプティミストな性質も体感。

多分,自分以外の他者は,こういう自分をいつも見ているんだろうなぁ。しかし,自分自身は,自分のなかのオプティミストな性質を忘れがちだ。

今日の出合いを大切にしよう…。

2012年3月 8日 (木)

伊那小学校公開研究会(2012)参会まとめ。

■(1)
「次の活動につながる大事な瞬間 その際(きわ)をふり返る まさにそのとき あとみよそわか」-たんなる教育活動ではなく本来の教育が実践されている,実物の姿に出合えた学校でした。

※開会式で,ある医師がマザー・テレサの“死を待つ人の家”を訪ねて言った言葉ー「ここには見るべき医療はないが,真の看護がある」を引いて,伊那小のめざすところを語られたのが,大変印象に残っている。

※◯×をつけるような,適応的なシングル・ループ学習の視座で伊那小の実践をみたとき,きっと「見るべき医療はなかった」と結論づけてしまうだろう。

※学びとは,迷悟一如だ。

▼(2)
「適応的なシングル・ループ学習の視座」で伊那小学校の実践をみると,表層の教師の技術や表層の子どもたちの言い方・やり方にしか目がいかないだろう。それはもったいない見方だ。教室に一歩入って驚かされたのは,能動的学習者として場に開いている子どもたちと教師がそこに居たこと。これは,観念や理屈としてではない。教室を覗いた途端,子どもたちの内で起こっている「動き(胎動)」がダイレクトに伝わってきて,授業の中身云々以前こちらまでドキドキ,ワクワクしてきたくらいだ。そういう土壌の「耕し」(“learning to be”)にこそ,私たちが学ぶべきことではないか。

▼(3)
4年生の総合活動の授業をみる。驚き!子どもたちのしている対話は,弁証法的対話だった。議題について賛成!反対!を出し合いながら自分たちが本当に話さなければならない本質が見えてくる,つまり,「正」・「反」の対話の中から,「合」に至るための主題が見出されて行くという1時間。こうした思考と対話のあり方が,1年生からの教育活動を通じて子どもたちのなかに“発生”してきている,というのは驚きと感動の何ものでもない。

▼(4)
伊那小の子どもたちの自立した姿の印象的なこと。個々が「自ら立つ」というのではなく,自と他の切れ目のないぶっ続きの地盤に「自ずと立つ」というあり方。

2011年9月26日 (月)

田中泯 場踊りin神戸「摩耶山天上寺」。

昨日は,神戸は六甲の摩耶山天上寺に,田中泯さんの場踊りを観に行く。
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始まって間もなく,後ろのおばさまが,帰る,帰る,帰る…と帰るを連呼。
音楽もないし,解説もないし…と,つぶやく。
今から面白くなるのよ…と隣の人がフォローしていたが,しばし「帰る」を連呼したあと,結局そのおばさまは,「ありがとうございました」と言って,帰って行った。

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場踊り。

神戸六甲の摩耶山天上寺「で」踊るのではない。

神戸六甲の摩耶山天上寺「を」踊る。

摩耶山天上寺は,とても磁場というか,何か力の強いところだったようだ。
ここでの泯さんの踊り(肉体)は,そんな何かの力に,対決するような翻弄されるような絡めとられるよう降参するような…。

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45分の踊りが終わったのちのインタビュー。泯さんは言った。

 名前の付く踊りは三流だと思っている。
 呼び名も付かないものを踊り続ける。
 名前に居座って踊っているとウソになる。

帰りがけ,今週発売の泯さん初のエッセイ集『僕はずっと裸だった-前衛ダンサーの身体論』を購入。
その場で,泯さんがサインをしてくれた。
空かさず握手をお願い。
笑顔で手を差し出してくれた。

本を開くと,「名づけられない踊り」でありつづけたい,とあった。

本来は,誰も,何も名づけられない。

そこに立ち続ける。私自分もそこを目ざしているんだな…。

2011年8月 7日 (日)

「考える」を考える(2)。

夏の研修シーズン,2つと1/2が終了。

最近の研修ではケーススタディをよくやっている。どの研修でも,全然想定通りに進まない。そんな時は,予定していたプランをあっさり捨てて,受講者の皆さんから出てくることをメインに,その場でプランを組み立て直しながら,同時に進行−インプロヴィゼーション(即興)。

だからというわけでもないけれど,2つと1/2が終了した今週末は,結構お疲れモード。

お疲れモードのなかうっすら感じたこと,ひとつ。

言葉や思考は,身体の「表現」されたもの,というより,身体の「延長」なんだな…。

「言葉は身体の延長だ」と言っていたのは,俳優で劇作家で演出家で多摩美術大学教授で東京芸術劇場芸術監督にも就任している野田秀樹さん。この言葉を聞いたとき「なるほどなぁ~」と思ったけれど,今は「やっぱりそうなんだなぁ…」という感じ。たぶんね…というくらいの,あくまでも感じ。

そんな感じを味わってみると,今からの研修の企画を変えてみるアイデアが出て来た。

この「たぶんね…」の感じは,まだ些細だけれど,結構大きな気づきかも。今後の研修の方向性が結構変わりそう。

2008年9月 6日 (土)

ひと夏の経験。

7月下旬からスタートした学校の先生方対象の研修の仕事も今週で一区切り。年間を通して教員向けの研修はありますが,特に夏休みシーズンは,先生方が研修しやすい時期でもあり,教員研修をフィールドワークのメインにしている私にとっては,忙しい時期の一つです。

一般の先生方から管理職の先生方まで,研修を通してご一緒した先生方は,200名以上になるでしょうか。実に様々な出会いがありました。全体として印象に残っていることは,どの先生方も,教育現場においてエッジで仕事をされているということ。どの研修でも,様々な先生方の思いや感覚が身をもって感じられた,そんな一夏でした。

そんな風に感じれられたのは,私自身のスタンスの変化も,結構影響しているのかもしれません。昨年度に引き続き行った研修では,オブザーブしていた研修先の方や講師仲間から「昨年よりもリラックスしている」「私が流れを引っ張るのではなく,受講者の流れに乗りながらリードしている」と嬉しいフィードバックをいただきました。

ただ,フィードバックしてもらったことや自身のスタンスの変化って,何故か自覚的ではありません。より受講者の先生方が研修で経験されることを身体的にシェアしていたり…そんなことが起きるので,多分自身のスタンスも結構変化しているのだろうな…と思うのですが,こうして振り返って書いていても,さして実感はないです。本来,本当に意味ある変容や気づき,その最中とは,そんなものかもしれません。

今週行った夏の研修シーズン締めくくりの研修では,次回の研修に向けての中間課題の設定が完了しなかった先生方が10名程いらっしゃったので,研修終了後,お一人ずつと5分間ずつコーチング・セッションをしました。

研修中の受講者同士のセッションで随分ほぐれているとはいえ,5分間のコーチングで,課題設定をするには,結構な集中力というか,遊びなしにダイレクトに核心を射抜いて行くようなセッション力が要求されます。5分間コーチング10連発って感じでしょうか。久々に私自身もエッジの効きまくったコーチングが体験できました。

「リラックして相手の流れに乗ってセッション」と「エッジの効いたセッション」。こう振り返ると,研修で出会った皆さんとのかかわりを通して,私自身の幅を探検し広げたことが,この一夏の経験だったと言えるかも。

なかなかの冒険でした

2008年7月20日 (日)

らくらくダイエット〜その後。

らくらくダイエット(08.04.15)。その後…です。

今夏のおすすめ!
Kakis
柿茶本舗の柿茶!

「身体の気持ちよさ」を「めあて」に,「6月の学会までに,もう一声カラダを締めて,人生最大に細かった頃のスーツが楽勝に入るくらいになる」ということを目安に1ヶ月半のダイエット。といっても,食事は,炭水化物を控えるだけで,カロリー制限なし。気候もよかったので,週2〜3回,2〜5km,交通機関を利用するところを徒歩に代えて歩くだけ。

結局,6月初旬の学会までに1キロ半減。体重の減少は大したことはなかったけれど,自分の足で歩いたおかげで,背中や足など全体的に締まった感じで,身体全体の調子も整う感じでした。というわけで,1キロ余り減に気を良くして,やっぱり昔のスーツはタンスに閉まって別途新調,学会発表してきました。

今は7月下旬。引き続きダイエットモードでやっています。やってはいるのですが…6月以降は梅雨で雨が多かったし,梅雨明けた日中は炎天下。なかなか歩きづらい季節です。ダイエットモードを解除する気はさらさらないのだけれど,ついつい,涼しい交通機関のお世話になることが増えます。その上,冷たい飲み物をたくさん口にすることも多くなりがちでいけません。涼しい環境,冷たい飲み物,食べ物とが過ぎると,かえって夏バテしそうです

なんてことを思いながら,先日,日傘を差して外出していたら,ギラギラの日差しが照りつけるなか,日傘の骨が外れて壊れたではありませんか。うそっ…。差せないわけではないけれど,やっぱり具合悪い。もう10年以上使っているし…,UV加工なしで結構日差しの透ける傘だし…,で目の前にはサマーセール中のデパートが…。一目散に日傘売り場に直行。山積みのワゴンセールの中から「ギラギラの日差しの下でも歩きたくなっちゃう日傘」を選んで購入。

それから数日経ちますが,お気に入りの傘は,やっぱり差したい!日傘を買い替える前よりは,交通機関のお世話になる距離が短くなり,暑さにへばらない程度で歩いてます。「あ〜暑いことが問題がいいわけにならずに,歩くことをモチベートしてくれるものはないかな…」と自覚的に考えていた訳ではないのですが,そんな問いを薄らでも持っていると,自分をモチベートしてくれるアイテムや機会は,自ずと逃さないものなのかも

おまけ。冷たい飲み物ばかりだと夏バテしそうなので,昨冬から春先まで飲んでいた柿茶本舗の柿茶を今夏も常備しておくことにしました。もちろんHOTで。暑くなってきたので飲まなくなって忘れていた柿茶を一袋発見。使っていない0.9Lのステンレス水筒を出してきて,柿茶一パックに熱湯注いでOK!これで半日から一日分。冷たい水やお茶を飲むより,身体の調子もいい…というか,悪くなりにくいような気がします。

暑いときには熱いお茶。これって昔から言われてることですよね

2008年4月15日 (火)

らくらくダイエット。

昨年の6月末からダイエットして,リバウンドなしに現在に至る。先日,人生(社会人になってからね)最大に細かった頃,十○年前のスーツを着てみると,バッチリ入るではないか〜。新しい洋服を買おうかと思ったのだけれど,せっかくなので,もう一声,カラダを締めてからにしようっと。と,独り鏡の前で気をよくする…。

ということで,洋服を買う変わりに,万歩計を購入。そもそもダイエットするのに,わざわざやるのも特別なことをするのもめんどくさい。生活の中で,ちょっと日頃よりも余計に歩く機会を作る切っ掛けにしよう,というわけです。万歩計を買ったからといって「毎日1万歩以上歩く」なんて達成目標は立てません。よく歩く日やそうでもない日を数値として目に見えるようにするためだけの道具として使います。歩くことの「めあて」は,あくまでも「身体を動かしてじわっと汗をかくこと」や「身体の気持ちよさ」,つまり身体の状態を整えることです。

もちろん「○月○日までに体重○キロ」なんて目標はNG。体重の減少は,もちろん万歩計の歩数と一緒でチェックはしますが,取組みの結果として生じることなので,直接的に関知せず。去年のダイエットもこんな考えでやりました。

昨年6月末のある晩,ふと体重計に乗ってみると…「人生最高記録じゃん!」という現実に直面。「ダイエットする」というところに,瞬時にチューニング。次の日から2週間,マフェトン理論の2週間テストを倣って,2週間炭水化物カット生活。それと以前買って放っておいたステッパーを引っぱり出して,気が向いたら一日15分。これでまず2週間余りで3〜4キロほど減量。

マフェトン理論については,私も専門ではないので右の本を参照してみて欲しいのですが,2週間テストで炭水化物をカットしてみると(食事のカロリーは落としません),自分にとっての炭水化物の必要量が分かるようになります。炭水化物を食べ過ぎると,眠くなったり身体の調子が崩れたりするので,必要以上に食べなくなり,結果的に体重も下がるというわけです。

ステッパーも,使う目的は汗をかくこと。ステッパーには消費カロリーや歩数など表示されますが,そういう数値を達成目標にはしませんでした。「めあて」は,あくまでも気持ちよく汗がかけるようになること。ちなにみ時間を15分としているのは,ステッパーの使用時間が一回15分となっているためで,これも達成目標ではありません。

こんな感じの取組みをして,結局,人生最高値から最終的に3ヶ月くらいかけて8キロ減で,現在に至ると言ったところ。このダイエットの効用は,体重の減少そのものよりも,体調管理的な意義の方が大きいです。

「身体の状態が整うように,ちゃんと身体の声を聴いて,それに従う」こと。考えてみると,これがダイエットのコツじゃないでしょうか。多分,私的には,「○月○日までに体重○キロ」とか「○○の服が着れている」という具体的なビジョンを掲げてダイエットしていたら,続いていなかったと思います。もちろん,「○月○日までに体重○キロ」とか「○○の服を着る」などの目標は,目安としてゆるく設定。というわけで今回は,「6月の学会までに,もう一声カラダを締めて,人生最大に細かった頃のスーツが楽勝に入るくらいになる」ということを目安にします。でも,「めあて」はあくまでも「身体の気持ちよさ」です。

まあ,考えてみれば,ダイエットってカラダのことなので,アタマでビジョンを描いて,アタマの立てた計画に身体を従わせるというやり方でダイエットしようというのは,無理があるというか,労力が必要以上に要りますよね。

カラダのことは身体に聴くのが早道で簡単!ということかな

2008年4月 9日 (水)

現状の中にポテンシャルとビジョンを見いだす。

・只今読書中の一冊・

先月,昨年11月から月一回2時間ペースで行なった研修を終えました。「現状の中にポテンシャルとビジョンを見いだす」というテーマで,研修と研修の間をホームワークとメールでのフィードバックで繋ぎながらの5ヶ月間。講師である私自身も学びの多い5ヶ月間を過ごすことができました。受講者の皆さんや研修先の事務局の皆さんに感謝です

月一の研修では,事前の流れやシナリオは用意せず,受講者の皆さんの気づきや疑問,意見などなどをフランクに出していただきながら論点を拾い主題を明確にしていくという即興性の高いやり方で進めました。ある受講者の方が,「頭上に?マークが沢山あがることがあったけれど,プロセスとして楽しい経験だった」と感想をくれました。実は,この「?」に気づくことが,こういう研修のやり方の醍醐味です。

この感想を下さった方は,ご自身の日常の仕事のなかで,大きな「!」を得られていました。きっと,研修内で生じた「?」にモヤモヤしつつも,興味を持ってご自身の「?」受け入れておられたのだと思います。「?」を抱えたモヤモヤ感,気持ち悪さ,落着きのなさに,イライラしたり抗ったりしないで,自身の現状と向き合って行く。これこそが「現状の中にポテンシャルとビジョンを見いだす」コツです。

たぶん,研修の中で「!」を提供して「答え」として持って帰って貰えるようにすると,満足度というか充足度は上がると思います。でも,研修というパッケージの中で「!」を得て満足して帰ってもらうことよりも,実際の仕事の中で(職場の人たちとともに)「!」が見いだされるようにすることの方に,私は価値を置いています。

それは,自分の経験からいっても,研修というパッケージの中で「!」を得て満足することが,実際の仕事の中での気づきや力の醸成にどれだけ寄与するのか疑問だから…ということが一つ。もう一つは,私自身が現場感覚というか,仕事の行為当事者的なスタンスから研修の組み立てを考えているから。

さらに(これはコーチング・セッションでも同じなのですが),クライアントや受講者の皆さんが,日常の中でどう動くのか,さらには彼らのまわりの人たちや物事と,どう関わりあっていくだろうか?そこをねらって研修を考えるから…たぶん,これが最も大きな理由だと思います。

つまりこれって,クライアントや受講者の皆さんを取り巻く日常の「全体性」を重視している,ということかな

2008年2月12日 (火)

岡村ちゃんに思う…。

★お薦め本★

岡村ちゃん…。岡村靖幸。80年代の終わりから大澤誉志幸とともに好きなミュージシャン。2月5日に覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕。2005年に2度目の覚せい剤取締法違反で実刑を受けていて,3度目の逮捕でした。

このニュースを見たとき「え…」と絶句。それと同時に,昨年の10月にTBSで放送された「NEWS23 金曜深夜便」での特集「覚せい剤との決別…歌手・岡村靖幸の生きる道」を思い出しました。この番組内で薬物を使うという行為に追い込まれた理由を聞かれて,「ひとことで言えば自分が弱かったから」「最初はいろんな言い訳をしていたけど,端的に自分が弱かったから」「自分が弱い人間だったと思う」と話していたことが,とても気になっていたからです。

「弱さ」という表現しか出来なかったのかもしれない。確かにそうかもしれない。でも「弱かったからそういう行為に追い込まれた」という図式で自分の行為を理解することが,岡村さんがこれから生きて行く上で,果たして善いことなのだろうか…。私は,そんな風に感じます。どうなんでしょうね…岡村さん…。

彼がとった行為の是非を論じることはさておき,「弱かったからそういう行為に追い込まれた」と同じ様な図式,つまり自分は「○○だから△△したのだ」,あの人は「○○だから△△するのだ」という図式でものごとを理解することって結構あるのではないでしょうか。

『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(キャロライン・ブレージャー 著)の最初に「四つの気高い真理:苦しみを理解すること」ということが書いてあります。四つの気高い真理とは,仏教でいう「四聖諦」(釈尊(ブッダ)が悟りを開いた夜に釈尊に訪れた洞察の中で鍵となるような要素の一つ)のことです(p9)。苦しみから逃れる方法は,苦しみを理解することに始まる。こういうスタンスに立った時,自分の行為や状況に対して「○○だから」という理由を考えること(=ラベルを張ること)が苦しみから解放される有効な方法である,とは私には見えません。

「○○だから」…,それはそうとして,そういう前提を横においてものごとに向き合っていく。この方が,苦しみから逃れるには断然早道のように思います。しかし実際は「○○だから」とラベルを張って結論付ける方が,何だか納得感もあるし,何かしらの安心感もあったりする。だから,なかなかこういう方法をやめられない。

『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』の中で著者は,「自己(セルフ)とは,苦悩に対する反応の中に組み込まれている防衛構造(defense structure)である」(p39),「自己を形成することはそこに知覚の歪曲があること,つまり迷妄の状態にいることを表しています。自己はわたしたちの人生において自分を制限する要因であり,他人から自分を切り離す働きをします。それは自己という牢獄を作り出すことなのです」(p41)と言っています。私は,「○○だから」とラベルを張ること自体が,自己防衛的な働きで,まわりのものごとから自分を切り離し,自己牢獄化をすすめる第一歩だと思っています。

引用の『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(キャロライン・ブレージャー著)のご紹介。この本は,知人の禅僧である藤田一照さんが訳していて,仏教にもカウンセリング・セラピーにも一石を投じた一冊だと思います。著者のキャロライン・ブレージャー氏は,自身が僧侶でありの心理療法の実践者です。四聖諦,五薀,唯識といった仏教の広くて深い教義を仏道と心理療法の実践者の目で統合的に論じていて,非常に興味深い。私的には,仏教教義が技法として適用される時,本来の仏教教義が示そうとしていることとコンフリクトするのでは?という疑問も残りますが,その問いも含めて,仏教者やセラピストだけでなく,「自己牢獄」からの解放を求める多くの人たちを触発してくれると本だと思います。ホントにお薦めです

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