「『導入のない授業』をめざして」〜東井義雄・八鹿小学校。
「『導入のない授業』をめざして」
東井義雄・八鹿小学校著『学力観の探究と授業の創造』明治図書、1969年、86-90頁より。
原田常次氏(「婦人生活」社々長)の随筆集に「人生座談」というのがある。その随筆集のはじめの方に、犬飼いの名人がNHKの朝のラジオ放送で「犬の話」を放送したときのことが書かれている。
「犬の話」を放送し終わって、「それでは、皆さま、ここにつれてきております愛犬文子に、一言、朝のごあいあさつをさせまして放送を終わりたいと思います」といって、文子に、一声「ワン」とほえさせるつもりだったというのである。
ところが、足もとを見ると、文子は眠ってしまっている。ハッと思って鼻を見ると、鼻が乾いてしまっている。(犬でも、猫でも、牛でも、馬でも、眠っているときと病気のとき、つまり、精神活動が休んでいるときには、鼻が乾いているのだそうである。)すぐ犬に目をさまさせることはできたのだそうであるが、そう易々と鼻はぬれてこない。どうにか鼻がぬれてきて、「ワン」のひと声が出たときには、すでに時間切れで、文子の朝の挨拶は放送にならなかった、というのである。
犬が「ワン」とひと声ほえるのにも、鼻がぬれてくる。という準備期間が必要であるらしいのである。
授業も、こういうもので、子どもの「鼻」が乾いていたのでは授業にならない。そこで、どうしっぽりと、十分に「鼻」をぬらさせるかについて、私たちの先輩は苦心してきた。そして、その「鼻」をぬらせる作業を、先輩たちは「導入」と名づけてきた。
だが、その考え方を掘り下げて考えてみると、その考え方の底には、教師は教えるもの、子どもは教えられるもの、という根強い考え方が横たわっていることに気づく。前項で述べたように、「問」が教える側に属するものだという根強い錯覚が教師には意識の底に横たわっている。しかし、子どもが「問」をもちはじめ、それを進んで解決しようとするようになれば、導入は不要になる。「鼻」ぬらしをしなくても、「鼻」は十分ぬれているからである。私たちは、こういう考えに立って、早く「導入のない授業」ができるところまで、子どもの学習意識を育てたいものだ、と言いあっている。
「導入のない授業」──具体的にはどういうことになるのか、仲間、Hさんの記録を紹介しよう。六年の算数授業の記録である。
(中略:88-90頁に記録)
私たちは「導入」が全然不必要だというのではない。必要なときには、遠慮なく、効率の高い「導入」を工夫してやっていくべきだと考えている。しかし、子どもがほんとうに「問」をもちはじめると、「導入」のない授業が可能であるし、そういうところまでいけるように、子どもに「問」を育ててやらなければ……と考えるのである。
それに、「導入のない授業」を目ざすなら、授業の「終末」の研究が必要である、ということも考えておかなければならない。「終末」は単なる「終末」ではなくて、そこが、次の学習の新しいスタートラインとなるように、工夫しなければならないということである。
なお、「導入」のない授業は、ほんとうに子どもが「問」をもちはじめるなら、低学年でも可能だ、ということをつけ加えておきたい。それは一年担任の婦人教師Iさんの次の授業記録を見ていただければ、わかってもらえるのではないかと思う。



