「大学に入って,初めて“考える”ということをしました 」。
これは,以前,大学の非常勤で情報表現関係の授業を担当していたとき,毎年学生からのコメントとして出てきていたこと。最近,「考える」ということを考えていて,あのときの学生のコメントを思い出し,つらつら考えてみる。
授業は主に大学2年生が受講していたけれど,彼らは私の授業に出合うまで,「考える」ということをしてこなかったのだろうか?知り合いの小・中・高校の先生にこの話をすると,へぇ〜…と不思議そうな顔をされたりして…。そりゃそうだ。人間生きていて,考えないってことはない。
その時の授業は,ウェブ上での情報デザインやパワーポイントを使ってのプレゼンテーションだったが,ウェブやパワーポイントの使い方だけをやっても面白くない(それはそれで,学生は集中して楽しく作業するのだが)。そこで,魚の骨やKJ法などを用いて図解しながら論理的思考や拡散的思考と収束的思考をトレーニングしていくことを学習の第一のねらいにしていた。そうしないと,ウェブの作り方やポワーポイントの使い方だけ習得しても,その先役にたたない。
こういうことはやったことがない学生がほとんど。皆,四苦八苦。でもそのうち,おもしろさに目覚める。いまから思うに,彼らにとっての初めてした「考える」とは,たぶん,自分自身で産み出すプロセス,自分自身で創り出すプロセスだったように思う。
「どうしたらいいですか?」とは,学期当初学生からよく出た質問。「正解はないんだよね」と応える。この応答は,学生にとってかなりのカルチャーショック。でも,程なく,学生も正解を求める質問をしても無駄で,自分でどう考えていくかを考えるという方向に切り替わっていく…。
そういう学生の経験にかかわれたあの授業は,講師であった私自身も非常に善い経験だった。
で,今。
学校教育を中心にコンサルテーションや職業人の研修をしたりするのだが,「自分自身で産み出すプロセス,自分自身で創り出すプロセス」を要求されるというのは,こちらが思う以上に苦痛らしい。「どうしたらいいですか?」「正解はないんだよね」…青天の霹靂。日常の教育活動のなかでこういう思考が要求されていないことはないはず,なのだけれど…。
経験を積めば積むほど,経験則が蓄積される。それをもとに次の行動や目の前の出来事を判断する。大事なことだけれど,落とし穴でもあるよね…(自分のハマった経験からいくと,ハマったこと自体にかなり無自覚だったりして)。経験則にあてはまらないことに出合ったとき,困る。無理矢理自分の経験則に当てはめるか,他人事として向き合わない,とか…。
もっと困るのは,「経験則=自分」だと思ってしまうこと。自分の経験に殊更固執する。そこには感情が伴う。感情が悪くなることは悪!自分の感情の優先順位は最上位。自分の経験則で自分の経験則が正しいと言えるものを切り出して自分を強化していく。
いずれにしても,そうなると「skilled incompetence(熟練した無能)」やいわゆる「学習障害」と言われる状態に…。
だから,学校組織や組織成員の行動を規定する“地図”を書き換えることが必要だ。と,私が研修やコンサルテーションする時は考えない。そういうやり方ではない人材育成や組織開発の方法を探究している。
「子どもたちのことばの獲得」について考える困難さの一つが,ここにある。私たちはことばを発見しつつある子どもたちについて,ことばをすでに発見してしまった視点からしか語れない。 (佐々木正人「『ことばの獲得』を包囲していること」小林春美・佐々木正人編『新・子どもたちの言語獲得』,p264より)
これは,アフォーダンス理論の研究者・佐々木正人氏の言葉。
そもそも人は,自分自身で産み出す能力,創り出す能力を具えている。それがどういうことなのか,その能力を発揮するということがどういうことなのか,まずは,自分自身が自分自身の実践のなかで問い,言葉にしていく。困難だけれど代え難いほどおもしろい。