デューイ

2021年7月29日 (木)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章 要約

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

要約

連続し発展して行く社会の生命にとって必要な態度や性向を子どもたちの内部に発達させることは、信念や情緒や知識の直接的な伝達によってなしうることではない。それは環境という媒介物を通してなされるのである。環境は、ある一個の生物に特有な活動の実行の関わりをもつ諸条件の総和から成る。また、社会的環境とは、その成員の中のある一人の活動の営みに堅く結びつけられている仲間たちの活動全体から成る。それは、ある個人が何らかの連帯的活動に関与つまり参加する程度に応じて、真に教育的効果を発揮する。人は、共同活動における自分の役割を果たすことによって、その共同活動を駆り立てている目的を自分のものとして、その方法や対象を熟知するようになり、必要な技術を獲得し、その情緒的気風に浸るようになるのである。

子どもたちが、だんだんといろいろな集団に属して行き、それらの集団の活動を分担するようになるにつれて、意識的にそうしようとしないでも、いっそう深くいっそう根本的な教育的成功形成がなされるようになる。しかしながら、社会がいっそう複雑になるにつれて、未成熟者の能力の養成に特に気をつけるような特別の社会的環境を設置することの必要性が明らかになる。この特別な環境の比較的に重要な三つの機能を列挙すれば、それによって発達させることが望まれている性向の諸要素を単純化し、順序づけること、現存する社会的慣習を純化し、理想化すること、子どもたちを放任しておいたら、おそらくその影響を受けるであろうような環境よりも、いっそう広く、いっそうよく均衡のとれた環境を創り出すことである。

2021年7月28日 (水)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章4(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

4、特殊な環境としての学校

(続き)

(41-42頁)

第二に、現存する環境に含まれている価値のない諸特徴を、それらが心的習性に影響を及ぼすものの中に入り込まないように、そこから、できるだけ、取り除くことが、学校環境の任務である。それは鈍化された行動の環境を設立するのである。選択は、単純化を目ざすだけでなく、望ましくないものを除去することも目ざすのである。あらゆる社会は、つまらぬものや、過去から持ち越された厄介物や、さらに積極的に邪悪なものを背負い込まされる。学校は、自分が提供する環境からそのようなものを取り除き、そうすることによって、通常の社会的環境の中にあるそれらのものの影響を打ち消すために、自分にできることをする義務をもっているのである。専ら最良のものだけを使用するために最良のものを選び出すことによって、学校は、この最良のものの力を強化することに努める。社会は、いっそう開化して行くにつれて、現存する業績の全体を伝達し保存することではなくて、よりよい未来の社会に寄与するようなものだけを伝達し保存する責任がある、ということを悟るのである。学校は、この目的を達成するためにの社会の主要な機関なのである。

第三に、社会的環境の中のいろいろな要素に釣り合いをとらせ、また、各個人に、自分の生まれた社会集団の限界から脱出して、いっそう広い環境と活発に接触するようになる機会が得られるように配慮してやることが、学校環境の任務である。「社会ソサエティ」とか「共同体コミュニティ」というような語は5回をまねきやすい。というのは、それらの語は、その一語に対して一つの単一の事物が存在すると思われがちだからである。しかし実際には、一つの近代社会は、多少緩く結びつけられた多数の社会なのである。親族という直接的な延長をもつ各世帯は一つの社会を成し、村や街の遊び仲間も一つの共同体なのであり、社会集団やクラブもそれぞれまた別の共同体である。これらの比較的親密な集団を越えて、わが国のような国の中にには、いろいろな民族や、宗教的結合や、経済的区分が存在する。近代都市の内部には、名目上の政治的まとまりがあるとはいえ、おそらく、かつての時代に大陸全土に存在したよりも、多くの共同体が存在し、多くの区々に相違する慣習や、伝統や、抱負や、統治あるいは支配の諸形態が存在する。

そのような集団は、それぞれに、その成員の活動的性向に対して形成的な影響を及ぼす。教会や労働組合や商売仲間や政党などと同じように、徒党もクラブも一味もフェイザン(子どものすりやどろぼうを手先に使う老悪漢、Dickensの小説Oliver Twistの中の人物)の泥棒一家も刑務所の囚人たちも、確かに、それらの集団的ないし連帯的な活動に加わる者たちに対して教育的な環境を提供するのである。それらはどれも、家族や町や国家と同じくらいに、共同生活つまり共同体生活の一様式なのである。また、芸術家の組織とか、文壇とか、地球上に散らばっている専門的な学会の成員のような、その成員同士がお互いに直接的な接触を僅かしかもたなかったり、あるいは全くもたないような、そういう共同体も存在するのである。というわけは、彼らは目的を共有しており、しかも各成員の活動は、他の成員が行っていることについての知識によって直接限定されるからである。

昔は、集団の相違は、主として地理上の問題であった。多くの社会が存在したが、それぞれは、その地域の内では、比較的に均質であった。しかし、商業、運輸、相互通信、移住の発展とともに、この合衆国のような国々は、いといとな伝統的慣習をもついろいろな集団の結合で構成されたものとなるのである。このような事態こそ、おそらく他のいかなる理由にもまして、子どもたちに、均質的で、しかも均衡のとれた環境というようなものを与えてやるようにな教育施設を必要不可欠なものとした最大の理由なのである。ただこのような方法によってのみ、同一の政治的単位内のさまざまの集団の並存が引き起こす遠心的な力を打ち消すことができるのである。いろいろな民族の、さまざまの宗教をもち、異なった慣習をもった若者たちを学校で混ぜ合わせることによって すべてのもののための、新しい、しかもいっそう広い環境が創り出される。共通の教材が与えられることによって、すべてのものが、孤立状態におかれた集団の成員のもちうる視野よりもいっそう広大な視野に立って統一的な見地に慣れて行くのである。アメリカの公立学校の同化力は、共通で均衡のとれた感化力の有効性を物語る雄弁な証拠である。

さらにまた学校は、一人ひとりの人間について、彼が入り込むいろいろな社会的環境が及ぼす種々雑多な影響を彼の性向の中に調整統合してやるという機能をもっている。家庭の中ではある掟が幅を利かせており、街では別の掟が、工場や商店ではまた別の掟が、宗教的結社ではさらに別の掟が幅を利かせている。人は、ある環境から別の環境へ移るとき、お互い相反する力で引っぱられ、そして、引き裂かれて、異なった判断や情緒の基準をもつ人間になる危険にさらされている。この危険があるゆえに、安定化と統合の任務が学校に課せられるのである。

(第2章本文、ここまで)

2021年6月 9日 (水)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章4(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

4、特殊な環境としての学校

(39-41頁)

人々の意志に関わりなく否応なしに進行する教育的過程についてこれまでに論述してきたことの第一の重要な点は、われわれがそれによって次のことに気づくようになることである。すなわち、成人たちが未成熟者の受ける教育の種類を意識的に統制する唯一の方法は、未成熟者がその中で行動し、それゆえ、そこで考えたり、感じたりするところの、環境を統制することによるのだ、ということである。われわれは決して直接に教育するのではないのであって、環境によて間接的に教育するのである。偶然的な環境にその仕事をさせておくか、それとも、その目的のために環境を設計するかどうかは、非常に大きな差異を生ずる。そして、いかなる環境も、その教育的効果に関して計画的に統制されていないならば、それは、その教育的影響に関する限り、偶然的な環境にすぎない。知的な家庭で幅を利かせている生活や人との交わりの習慣が、子どもたちの成長にとってどんな関係をもつかを考慮して、選択されているか、少なくとも色づけられている、という点である。とはいえ、学校は、言うまでもなく、やはり、その成員の知的および道徳的性向に影響を与えることを特に考慮して構成された環境の典型的な例であることに変わりはない。

大まかに言えば、社会の伝統が非常に複雑になって、その社会的蓄積の相当の部分が文書に書き留められ、文字記号によって伝達されるようになるとき、学校が出現するのである。文字記号は音声記号よりいっそう人工的ないし形式的である。それは他の人々との偶然的な交わりの中で身につけることのできるものではない。その上、文書形式は、日常の生活には比較的に縁のない事柄を選んで記録する傾向がある。世代から世代へと積み重ねられてきた業績は、たとえその中のいくらかが一時的に使用されなくなったとしても、文書形式で保管されるのである。その結果、ある共同社会が、その地域や、その時代を越えたところに存在するものに、かなりの程度、依存するようになるやいなや、その共同社会は、自己のすべての資産の適切な伝達を確実にするために、学校という確固たる機関にたよらなければならなくなるのである。明白な実例を挙げれば、古代のギリシャ人やローマ人の生活はわれわれ自身の生活に深く影響を及ぼしているのだが、彼らがわれわれに影響を及ぼす方法は、われわれの通常の経験の表面には現われてこない。同様に、現存してはいるが、空間的に遠く離れている民族、イギリス人やドイツ人やイタリヤ人も、われわれ自身の社会の事柄に直接関わりをもっているのだが、その相互作用の本質は、はっきりと述べられ、注目されるのでなければ、理解することができないのである。そしてまた全く同様に、遠く離れた物理的エネルギーや目に見えない構造が、われわれの活動の中で果たす役割を、子どもたちに説明してやることも、われわれの日々の共同生活に期待することはできないのである。それゆえにこそ、そのような問題について配慮して、社会的な交わりの特別な様式、つまり学校が設立されるのである。

この共同生活の様式は、通常の共同生活に較べて、特記するに足るほど特殊な三つの機能をもっている。第一に、複雑な文明は、あまりにも複雑すぎて、丸ごと同化することはできない。それは、いわば、部分に解体されて、漸進的な段階的なやり方で、少しずつ同化されなければならないのである。現在の社会生活の諸関係は、あまりにも多岐にわたっており、しかも互いに錯綜しているので、最もめぐまれた境遇におかれている子どもでも、それらの関係の中の数多くの最も重要なものに容易に参加することができないほどである。だが、それらの関係に参加しなければ、それらの意味は、彼に伝えられないだろうし、彼の精神的性向の一部となることもないだろう。森を見て、木を見ないことになるわけである。職業的活動も政治も芸術も科学も宗教も、すべてが一度にわめきたてて注意を引こうとして、結局は混乱が残るだけだろう。学校は、まず、かなり基本的で、しかも子どもたちが反応することのできる社会関係の特徴的要素を選び出す。そして、次第に複雑なものへ進んでいくような順序を立てて、いっそう込み入ったものを洞察するための手段として先に習得した要素を利用するのである。

(続く)

 

2021年5月30日 (日)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章3(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

3、教育的なものとしての社会的環境

(続き)

(37-38頁)

この「環境からの無意識的な影響」は、性格や精神のあらゆる組織に作用するほど精妙で滲透力のあるものであるが、その効果が最も顕著に現われる方面を二、三指摘するのは意義のあることであろう。第一に、言語の習慣である。言葉の基本的様式や、語彙の大部分は、きちんと決まった教授の方法としてではなく、社会的に必要なこととして営まれる日常の生活の交わりの中で形成されるのである。われわれはうまい言い方をするものだが、赤ん坊は、語mother tongueを獲得する。このようにして身についた言葉の習慣は、意識的な教授によって矯正されたり、また排除されることさえあるけれども、それでも興奮したときには、意図的に獲得された言葉の様式はしばしば剝落して、人々は自分たちの本当のお国訛りに逆戻りするのである。第二は、行儀作法である。周知のように、お手本は訓戒にまさる。よい行儀作法は、いわゆるよい育ちから生ずる。いやむしろ、よい育ちそのものである。そして、育ちは、知識を伝えることによってではなく、平素の刺激に対する反応としての、平素の行動によって獲得される。意識的な矯正や教授が際限なく行なわれているにもかかわらず、結局は、周囲の雰囲気や気風が行儀作法を形成する主要な力なのである。そして、行儀作法は小さな道徳にすぎない。しかも、大きな道徳においていも、意識的な教授は、子どもの社会的環境を構成する人々の一般的な「平素の言行」と調和する程度においてだけその有効性を期待しうるにすぎないのである。第三に、よい趣味と美的鑑賞眼である。優美な形態や色彩をもつ調和のとれた対象につねに接していれば、趣味の基準は自然に向上する。貧弱で無味乾燥な環境は美への欲求を餓死させてしまうが、それと全く同様に、安ぴかで乱雑でけばけばしい環境の影響は趣味を脱落させる。そのような大敵に対して、意識的な教授がなしうることは、せいぜいのところ、他人が考えていることについての受け売りの知識を伝えることくらいのものである。そのような趣味は、自発的な、しかもその当人自身に深く染み込んだものとは決してならないのであって、尊敬するように教えられてきた偉い人々がどんなことを考えているかを思い出させる不自然な記憶にとどまるのである。そして、さらに深い価値判断の基準も人が平素入り込む情況によって作られるのであるが、このことは、改めて第四点をあげることにはならないのであって、むしろすでに述べた諸点を混ぜ合わせたものを指摘するだけのことである。何に価値があり、何に価値がないかについて意識的な評価が、どれほど多く、全く意識されていない基準によっているかに、われわれは滅多に気がつかない。だが、一般に、われわれが、調査したり熟慮しないで、無論のことと思っている事柄こそ、われわれの意識的な思考を限定し、結論を決定するものなのだ、と言えるのである。しかも、熟慮の水準の下にあるこれらの習性こそが、他の人々との絶え間ない関係のやりとりの中で形成されてきたものにほかならないのである。

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章3(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

3、教育的なものとしての社会的環境

(35-37頁)

われわれの考察の正味の成果は、これまでのところ、次のことである。すなわち、社会的環境は、一定の衝動を呼び醒まし、強化し、また一定の目的をもち、一定の結果を伴う活動に、人々を従事させることによって、彼らの中に知的および情動的な行動の諸傾向を形成する、ということである。音楽家の家庭で育つ子どもは、彼が音楽に関してもっている素質はどれもみな不可避的に刺激されるだろう。しかも、相対的には、それらは、別の環境で目醒ませられたかもしれない他の衝動よりも強く刺激されるだろう。音楽に興味をもち、しかも音楽に関して一定の能力を獲得するのでなければ、彼は「仲間外れ」になり、自分が所属する集団の生活に加わることができない。人間にとって、自分に関係のある人々の生活に何らかの形で参加することは不可避のことである。そういう参加という点から言えば、社会的環境は、無意識的に、そしてはっきりと決められた目的のどれども無関係に、教育的すなわち形成的な影響を与えるのである。

未開人や野蛮人の社会では、そのような社会生活への直接的参加(これまでに論じてきた間接的ないし付随的教育はそれによって成り立っているのである)の与える影響が、子どもたちを育てて、その集団の慣行や信念を身につけさせて行くための、ほとんど唯一の作用である。今日の社会においても、学校教育を最も強く受けた若者でさえも、その基礎的養育を、そのような直接的参加から受けるのである。その集団がもつ関心や業務に応じて、ある種の事物は大いに尊重される対象になり、他の事物は反感の対象になる。共同生活は愛情や嫌悪の衝動を創り出しはしないが、それらが結びつく対象を与える。われわれの集団または仲間が事をなす行動様式は、注意を向けるにふさわしい対象を決定し、したがってまた、観察や記憶の方向や限界を規定する傾向がある。見慣れないものとか、異質なもの(すなわち、その集団の活動の範囲を越える外的なもの)は、道徳的に禁止され、知的には疑わしいものとされがちである。たとえば、われわれが非常によく知っていることが昔は見落とされていたということがありえたとは、われわれにとってほどんど信じられないことのように思われる。われわれは、昔の人々は生来愚鈍であったとし、われわれの側には生まれつきの優れた知能があるとすることによって、そのことを説明しがちである。けれども、それを説明する理由は、彼らの生活様式がそういう事実に対して注意を喚起しないで、他の事柄に彼らの精神を集中させていた、ということなのである。感覚が刺激されるために感じうる対象が必要であるのとちょうど同じように、われわれの観察、回想、想像の能力は独りでに働くわけではないのであって、広く一般に行なわれている社会の諸業務によって起こされた要求によって発動させられるのである。性向の素地は、学校教育とは無関係に、そのような影響下で形成された諸能力を解放して、もっと十分に働くようにしてやること、それが能力から粗雑さをいくらか除去してやること、いろいろな対象を与えて、それによって、それらの活動が意味をより多く産み出すことができるようにしてやることである。

(続く)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(4)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(続き)

(34-35頁)

共同の仕事において使用された他の諸事物との関連によって音声が意味を獲得した後には、それらの音声は、それらが表わす諸事物が結びつけられるのと全く同じように、それらとよく似た他の音声と関連して用いられ、新たな意味を展開することができる。だから、子どもが、たとえば、ギリシャ人の兜について学ぶ際に使う言葉は、最初は、共通の関心と目的をもつ行動の中で用いられることによって、ある意味を獲得した(つまり理解された)のであった。そして、それらの言葉は、聞いたり読んだりする者を刺激して、兜が用いられるような活動を想像の上で試演させることによって、新たな意味を呼び起こすのである。「ギリシャ人の兜」という語を理解する人は、当分の間、心の中で、その兜を用いた人々の仲間になるのである。彼は、自分の想像力によって、ある共有された活動に従事するのである。言葉の完全な意味を学びつくすことは容易なことではない。おそらく、大部分の人は、「兜」とはギリシャ人と呼ばれる人々がかつて着用した奇妙な種類の被り物をさすという考えにとどまるだろう。そこで、われわれは、次のように結論するのである。すなわち、観念を伝え、獲得するために言語を用いるということも、事物は、共有された経験すなわち共同の活動において用いられることによって、意味を獲得するという原理の拡張であり、洗練なのであって、いかなる意味においても、それは決してその原理に矛盾するものではない、と。明白な事実としてか、想像においてか、そのいずれかで、言葉が共有された情況の中へ要素として入り込まないときには、それは純物理的な刺激として作用するにすぎないのであって、意味すなわち知的価値をもつものとしては作用しないのである。それは、活動がある特定の溝の中を進むようにさせはするが、しかしそこにはそれに伴う意識的な目的ないし意味は少しもないのである。だから、たとえば、プラス記号は、ある数字の下に別の数を書いて、それらの数を加算するという動作を行なわせる刺激となるかもしれないけれど、その動作を行なっている人間が、もし自分の行なうことの意味を自覚したいならば、彼は、自動機械とほとんど同じように働くにすぎないことになるだろう。

2021年5月27日 (木)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(3)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(続き)

(32-34頁)

言語の多くのことについての学習の主な道具となる傾向があるから、それがどんな風に働くかを調べることにしよう。赤ん坊は、もちろん、まず意味のない、すなわちいかなる観念も表さない単なる音響、雑音、音調から始める。音は直接的な反応を引き起こす刺激の一種にすぎない。あるものは宥めるような効果をもち、他のものは人を跳び上がらせるような傾向があるなど。ボウシという音声は、いく人かの人が参加する行動に関連して発せられるのでなければ、チョクトー族の言葉の音声、つまりうわべは音節のはっきりしない唸り声、と同じように無意味なものにとどまるだろう。母親が乳児を戸外へ連れて出ようとしているときに、彼女はその子の頭に何かを被せながら「ボウシ」と言う。外に連れて行ってもらうことがその子どもの関心事になる。母親と子どもは、ただ物理的にお互いに連れ立って外に出るだけでなく、両者は共に外に出ることに関心をもっている。つまり、その音声は、それが入り込む活動の記号となるのである。言語は相互に理解可能な音声から成り立っているという単なる事実は、それだけで、その意味が共有された経験との関連によって決まることを証明するに足るのである。

要するに、ボウシという音声は、「帽子」という物が意味をもつようになるのと全く同じ仕方で意味をもつようになる、つまり、一定のやり方で用いられることによって意味をもつようになるのである。そして、それらが成人に対してもつのと同じ意味を子どもに対してももつようになるのは、成人と子どもの両方が共通の経験の中でそれらを用いるからである。同じ用い方がなされる保証は、その物とその音声が、子どもと大人の間に能動的な関係をうち立てる手段として、ある共同の活動の中で最初に使用されるという事実にある。類似した観念ないし意味が生ずるのは、両方の人間が、それぞれ一方の行なうことが他方の行なうことに依存し、しかも影響を与えるような行動に、共同者として従事するからである。もしも二人の未開人が共同して獲物を追いかけているとして、ある合図がそれを発する者にとっては「右へ行け」を意味し、それを聞く者にとっては「左へ行け」を意味するとしたら、明らかに、彼らは狩猟を一緒にうまくやって行くことができないだろう。相互に理解しあうということは、音声をも含めて、諸事物が、共同の作業を営むことに関して、両者にとって同様の価値をもつ、ということを意味するのである。

(続く)

2021年5月18日 (火)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(続き)

(30-32頁)

ところで、多くの場合−−あまりにも多くの場合−−、人間の未成熟者の活動も、有益な習慣を形成するために、ただうまうまと利用されるにすぎない。彼は、人間らしく教育されるというより、むしろ動物のように訓練されているのである。彼の本能は、依然として、それが最初からもっていた苦痛とか快楽という目的に結びつけられたままである。けれども、幸福を手に入れたり、失敗の苦痛を回避したりするために、彼は他の人々の意に適うやり方で行為しなければならないのである。だがそうでない場合には、彼は、本当に、共同活動に関与すなわち参加するのである。その場合には、彼の本来的な衝動は修正される。彼は単に他の人々の行動に調和するやり方で行動するだけでなく、そのように行動しているうちに、他の人々を活動させるのと同じ観念や情緒が彼の中に生ずるのである。ある部族が、たとえば、好戦的であるとしよう。その部族が努力して達成しようとする成功や、尊重する業績は、戦闘や勝利に関するものである。こういう生活環境が存在することは、少年を刺激して、最初は遊戯において、やがて少年が十分に強く逞しくなったときには実戦の場において、好戦的態度を発揮させるのである。闘えば、それだけ彼は世に認められ、出世することになるが、尻込みすれば、それだけ嫌われ、嘲られ、好意的処遇を拒まれる。彼が最保からもっている好戦的な傾向や情動が他のものを犠牲にして強化させることや、彼の考えが戦争に関係する事物に向かうことは、少しも意外なことではないのである。このようにして、はじめて、彼はその集団の公認の成員に立派になりきることができるのである。このようにして、彼の心的習性は、しだいにその集団のものに同化されて行くのである。

右の実例の中に含まれている原理をとり出して明確にすれば、社会的生活環境は、一定の願望や観念を直接植えつけはしないし、また、打撃に対して「本能的に」瞬きしたり身をかわしたりするような、ある種の全く筋肉的な行動習慣を確立することにとどまりもしない、ということに気づくだろう。一定の見たり触れたりすることのできる具体的な行動様式を刺激するような情況を設定することが、最初の段階である。そして、個人をその共同活動の参加者すなわち仲間にして、彼がその成功を自分の成功と感じ、その失敗を自分の失敗と感ずるようにすることが、その完成段階なのである。その集団の情動的態度が彼に乗り移るやいなや、彼は、その集団が目ざしている独特の目的や、成功をもたらすために使われる手段を機敏に認知することができるようになるだろう。言い換えれば、彼の信念や観念は、その集団の他の人々のものと同様のものとなるだろう。そしてさらに、彼は他の人々とほとんど同じくらいの知識の貯えを獲得するだろう。なぜなら、その知識は彼がいつもやっていることの構成要素だからである。

知識を獲得する過程で言語が重要な働きをすることが、知識は人から人へ直接的に伝えることができる、という俗説の主な原因となっていることは確かである。ある観念を他人の心に伝えるには、その人の耳に音声を伝えさえすれば、それでよいかのように思われてるほどである。そのため、知識を伝えることは、純物理的な過程と同じものとされてしまうのである。けれども、言語からの学習過程は、分析すれば、先ほど述べた原理を裏付けるものであることがわかるだろう。おそらく、次のことは、ほとんど躊躇することなく、容認されるだろう。すなわち、子どもが、たとえば、帽子の観念を獲得するのは、それを他の人々がするのと同じように用いることによってなのだ、つまり、それを頭に被ったり、それを被るために他の人に手渡したり、外にでるときにそれを他の人から被せてもらったりすること等々によってなのだ、ということである。だが、物語や読書によって、たとえば、ギリシャ人の兜の観念を獲得する過程に、この共有された活動という原理は、いったいどんな風に当てはまるのか、と問われるかもしれない。というのは、その過程には、直接それを用いるというようなことは全然入り込まないからである。また、アメリカ大陸の発見について書物から学ぶ過程に、いったいどんな共有された活動があるのだろうか。

(続く)

2021年5月17日 (月)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章2(1)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

2、社会的環境

(27-30頁)

他者と共同して活動している生物は社会的環境をもっている。彼が何を行なうか、そして何を行なうことができるかは、他者の期待や要求や賛成や非難によって決まる。他者と関連づけられているものは、他者の活動を勘定に入れることなしに、自分自身の活動を遂行することはできない。というのは、それら他者の活動は、彼自身の行動傾向を実現するために不可欠の条件だからである。彼が動くとき彼は他者を動かし、そして彼もまた他者に動かされるのである。ある個人の活動をその人だけの孤立した行動によって説明することができると考えるのは、全く自分ひとりで、買ったり売ったりしながら商売している実業家を創造してみるようなものである。そしてまた、工場主が自分自身の会計室で密かに計画を立てているときにも、原料を購入したり製品を販売したりしているときと同じように、彼の活動は確かに社会的に導かれているのである。他者と共同して行われる行動に関係のある思考や感情は、極めて明白な協力的ないし敵対的な行為と同じくらい、社会的な行動様式なのである。

特にはっきりと指摘しておかなければならないことは、いかにして社会的生活環境がその未成熟な成員を養育するかということである。社会的生活環境がいかにして外面的な行動の習慣を形作るかということを知るには大した困難はない。犬や馬でさえ、その行動は、人間との共同生活によって改変される。犬や馬がいろいろな習慣を形成するのは、それらが行なうことに人間が関心をもっているからである。人間は、動物に影響を与える自然の刺激を統制することによって、言い換えれば、一定の環境を創り出すことによって、動物を制御する。餌、轡と手綱、音、車が、馬の自然な、つまり本能的な反応の生じ方を方向づけるために利用される。一定の動作を呼び起こすように間断なく働きかけることによって、本能的興奮と同様の画一性をもって機能する習慣が形成される。ねずみを迷路の中に入れて、一定の順序で一定の回数を曲ったときにだけ、餌にありつけるようにしておけば、そのねずみの活動は次第に改変されて、空腹のときにはいつも、他の経路よりむしろその経路をとるまでになる。

人間の行動も同じようなやり方で改変される。火傷をした子どもは火を恐れる。もしも親が、子どもがある玩具に触るといつも火傷をするように条件を整えておくならば、彼は火に触るのを避けるのと同じように自動的にその玩具をさけることを学習するだろう。しかしながら、これまでのところ、われわれは、教育的な教授とは区別して訓練と呼びうるものについて考察しているにすぎない。いま考察している変化は、行動の知的および情緒的な性向の変化というより、むしろ外面的行動の変化なのである。といっても、その区別は鮮明なものではない。ことによると、どの子どもはやがてその特定の玩具に対してだけでなく、それに似た玩具全体に対して激しい反感をもつようになるかもしれない。その嫌悪は、最初の火傷のことを忘れてしまった後でもなお持続するかもしれない。さらに後になって、彼は、どうも理屈のに合わないように思われる自分のその反感を説明するために何か理屈を考え出したりするかもしれない。環境を変えて行動への刺激に変化を与えることによって、外面的な行動の習慣が改変され、そのことが、ある場合には、さらにその行動に関係する心的傾向をも改変することになるだろう。けれども、こういうことは、つねに起こるとは限らない。たとえば、おそいかかってくる打撃から身をかわすように訓練された人は、対応する思考とか情動とかを少しも伴わずに、自動的にひらりと身をかわすのである。そこで、訓練を教育から区別する差異を何か見出さなければならないことになるのである。

手がかりは次の事実の中に見出されるだろう。すなわち、馬は自分の行動が社会的に利用される過程に本当に参加しているのではない、ということである。他の何者かが、自分に有利な結果を獲得するために、その行動の遂行がその馬にとって有利になるようにすること−−餌を得ることなど−−によって、馬を利用するのである。しかし、馬は、多分、何か新たな興味をもつことにはならないだろう。馬は以前として餌に興味をもったままであって、自分が行なっている奉仕には興味をもたない。彼は共同の活動の仲間ではないのである。もしも彼が共同者となるのだとすれば、彼は、その連帯の活動に従事しているときに、その活動の完成について、他の者たちと同様の興味をもっているはずである。彼は、他の者たちがもっている観念や情緒を共有するはずなのである。

(続く)

2021年5月15日 (土)

抜書き:デューイ『民主主義と教育』〜第2章1(2)

J.デューイ著、松野安男訳『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年。

 

第2章 社会の機能としての教育

1、環境の本質と意味

(続き)

(26-27頁)

この問題に対する答えは、一般的な定式で言えば、一定の反応を呼び起こす際の環境からも作用によるということになる。要求されている信念をたたき込むことはできないし、必要とされている態度をはりつけることもできない。しかし、人は、自分が生存している特定の生活環境に導かれて、選択的にある特定のものを見たり感じたりするようになるし、他の人々と一緒にうまくやって行けるように一定の流儀を心得るようになる。また、その生活環境は、他の人々の賛同を得るための条件として、ある信念を強化し、他の信念を弱める。このようにして、その生活環境は、その人の中に、次第に一定の行動体系や一定の行動傾向をつくり出すのである。「環境」environmentとか「生活環境」mediumという語は、個体をとりまく周囲の事物より以上のものを意味する。それらの語は、周囲の事物がその人独自の活動的傾向に対してもつ特定の連続関係を意味するのである。もちろん、無生物もその周囲の事物と連続している。しかし、比喩的に言うほかは、それをとりまく事情は環境とはならない。というのは、無生物は自己に影響を及ぼす力に関与しないからである。ところが他方、生物、とりわけ人間の場合には、彼から空間的にも時間的にも遠く離れている事物が、彼の身近にある事物よりも、より確実に彼の環境を成すことがあるのである。人の方もそれとともに変わって行くようなものこそ、その人の本当の環境なのである。たとえば、天文学者の活動は、彼が注視したり、それについて計算したりする星とともに変わる。彼を直接とりまいている事物のなかでは、彼の望遠鏡がもっとも密接な彼の環境である。また、好古家の、古物研究家としての、環境は、彼が関心をもっている遠い昔の時代の人間の生活や、彼がその時代と関係をつけるために用いる遺物や碑文などから成り立っているのである。

要するに、環境は、ある生物に特有の活動を助長したり、妨害したり、刺激したり、抑制したりする諸条件から成り立っているのである。水が魚の環境であるのでは、それが魚の活動----つまり魚の生活----に必要だからである。北極探検家が北極に到達することに成功しようとしまいと、北極が彼の環境の重要な要素であるのは、それが彼の活動を限定し、彼の活動を他のものとは異なった独特のものにするからである。生活は、単なる受動的生存(そういうものがあると仮定してのことだが)にすぎぬものではなく、行動の仕方を意味するのであるからこそ、環境または生活環境とは、この活動の中に、それを維持したり、挫折させたりする条件として、入り込むものを意味するのである。